【マインド】刑事ドラマとホラー映画に共通する殺人欲求
90年代のドラマの代表格は
いわゆる月9と呼ばれるメロドラマと
「刑事ドラマ」が台頭していた。
私が好きな刑事ドラマは
ケイゾクやサイコメトラーEIJIだ。
どちらも堤幸彦監督が手がけていて
サイケデリックな映像はオシャレだった。
数十年ぶりに再びみてみると
思った以上にグロテスクだった。
そこで通常の刑事ドラマと
一線を画している点はなんだろうと
疑問に思って観察してみる事にした。
人が殺される作品のパターンには
幾つかあるのではと推測してみた。
ミステリー(探偵系)は
基本的に犯人が隠されており、事件が起きたあとの真相を解明していく謎解き要素が多い。
サスペンス(刑事系)は
犯人がはじめから明かされており、
追い詰めていく心理戦が描かれることが多い。
ホラー(殺人鬼、幽霊系) は
殺人そのものに焦点をあて、どのように殺されるかや犯人がいかに狂気的かが求められる。
それは思念や概念などの場合もあり幽霊として扱われている事もある。
※ゾンビは視点が違う気がするので外す
そこで、堤監督の作品を振り返ってみると
全てごちゃまぜになっているのではと感じた。
ケイゾクに関して言うと
天才・柴田が資料を元にある程度
推測を立てるシーンが存在する。(探偵もの)
そして、実際に犯人に対峙して
説得するシーンもある。(刑事もの)
その裏で"朝倉"という快楽殺人犯人の姿が
ずっとチラ見せ状態で劇場版まで続く。
(ホラー映画)
"殺人"という欲求に対して
余すことなく描いていることがわかる。
夢中になってみた理由が
言語化できたように思えてうれしい。
これはデッドバイデイライトにも近い。
初動で犯人を推測し(探偵)
中盤は殺人鬼とチェイスで向き合う(刑事)
そしてさいごにはやられる(ホラー)
といった具合だ。
犯人との対峙に特化しているのは
古畑任三郎、刑事コロンボ。
トリックに特化しているのは
金田一少年の事件簿、名探偵コナン。
目的地は殺人欲求だけれど
アプローチが違うことがわかる。
ケイゾクなどはぎゅっと要素を詰め込んで
殺人のコラージュとでも言えるだろうか。
ここで、殺人についてもう少し考えたい。
サイコメトラーEIJIの第一話は
有名な殺人鬼「メビウス」が出てくる。
ネタバレすると、彼は幼い頃に目の前で
幼なじみのお姉さんを殺される。
そして実は母親が目の前で事故にみせかけて
突き落としたというトラウマを抱えている。
本当は母親を殺したい。
しかし、現実は母親と二人暮しで教師という
固い職業についている。
彼は母親に殺意を向けられずに鬱屈する。
その殺意が生徒たちに向かっていくという話。
えいじくんのサイコメトリー能力
(物質から記憶を読み取る力)と
刑事の志摩さんによるプロファイリング
(犯人を情報で特定するやり方)で
犯人を追い詰めていくストーリーだ。
原作より犯行動機が
しっかり描かれているように感じる。
犯人は基本的に鬱屈している場合が多い。
(朝倉みたい快楽殺人鬼をのぞいて)
押さえつけられた何らかの欲求を
人を殺すことで満たそうとしている。
メビウスの場合は
「母親からの抑圧」+「教師という職業」。
それを解放する為なので
犯人と特定されたあとのもがき具合も凄い。
なりふり構わず反抗する様は恐ろしい。
人の抑圧が解放の欲求に負けた時
誰だって殺人犯になってしまうのかと
想起させるほど惨たらしい光景だ。
私がふと殺意を持ってしまうのは「解放する」形を知らなかったからなのではないだろうか。
人より溜め込みやすい性格なのは変えられないのでとにかく吐き出す作業を随時実行する必要があるのだと実感してしまった。
私の先輩にいつも淡々としている人がいる。
しかし、彼の愛読書は「拷問の歴史」や
「処刑の方法」などだった。
脳内でやっちゃってるんだろうか。
私は文章をひたすら出すことで
かなり抑圧から逃れてる気がする。
書けば済む話なのでコスパ最強だ。
(言語化できないときはもやもやするけれど)
抑圧は創造の重要な役割なのかもしれない
と考えるのはあまりにも危険だろうか。
最後までお読みいただきありがとうございます、今日もいいことありますよ!