楠栞桜の作り上げた失敗"達"
楠栞桜の作り上げた失敗達とはズバリ、楠栞桜の過激な信者達の事である。そのことを順を追って説明しようと思う。
楠栞桜はec騒動から始まる一連の騒動で配信者として得たものはほぼすべて失った。まともなファン、名声、これからも得るはずだった収入。
アンチのせいであると言う意見を聞くが、それは正解である。アンチと言う存在が行動に寄って分類される以上、アンチは対象をけなし貶め、時には邪魔をする存在であること、それは間違いない。
しかしアンチと言う存在を、対象を貶める存在として分類すると不思議なことが解る。
大まかにアンチを分類すると、炎上後に必ずやってくる野次馬、単純に嫌っている人達、Vそのものを嫌う人達、そして楠栞桜の過激な信者達、大抵はこれらのどれかに当てはまる。
楠栞桜のファン全員がそう、と言う訳では勿論ない。あくまで一部の過激な栞桜信者の事である。ここからは便宜上、過激な信者の事を信者と書かせていただく。
本当に信者がアンチに分類されるの?と言う意見はあって然るべきだろう。しかし少なくとも楠栞桜に関しては、信者が他の誰よりも強烈にアンチをしている。
実例をあげよう、ゴースティング騒動の発端とも言える元麻雀プロの動画がある、楠栞桜に対してゴースティングの疑惑を指摘した動画の事だ。
しかしゴースティングと言うのはFPSのチートなどとは違い100%の実証は不可能である。事実その元プロも、ゴースティングをしている、もしくは下手と発言し、断定はしていない。センセーショナルではあるが徐々に忘れられていく筈の話だった。
しかしここで切り抜き動画を作成している信者が、元プロの動画に自分の動画が使われているとして削除申請を出し、動画は削除された。
当然最悪の1手である、動画はあちこちに拡散され、この信者はゴースティング騒動最大のインフルエンサーとして見事に機能した。
それ以外にも多種多様な信者達による効果的なアンチ活動はあるが、殆どに共通して言えるのは感情で行動していると言う事だ。
感情で行動すれば大抵は失敗する。しかし感情で行動するしかないのだ。既に。何故なら冷静に考えて楠栞桜は擁護の仕様が無いからである。ec騒動、cottage騒動、ゴースティング騒動これらに置いて楠栞桜の無実を指し示す材料は無い。また、炎上する程のものでは言うにはあまりにも迷惑を被った人間が多く、特典のカバーを予約後に差し替えるハメになった企業すらある。
唯一ゴースティングは一部否定する事が出来るかもしれない。しかし、ゴースティングと言うのは100%クロにならない代わりに、100%シロにするのも無理なのだ。要するに疑いが大きく拡散された瞬間、信者が元プロの動画を削除した瞬間から既に麻雀Vの楠栞桜は消えたも同然、今更どうしようがもう遅いとしか言えないのだ。
しかし一つ不可思議なことがある。楠栞桜はまともな擁護の仕様が無い。これは先程述べた通りである。事実多くのまともなファンは何も言わず消えるか、認めがたい事実に苦悩している。少なくとも登録者が5千は減った。それは事実である。
しかし何故そうまでして、楠栞桜を擁護しようとするのか。
これは不思議な事だ。信者達は滑稽ながらも独特の気迫すら感じる様で擁護を続けている。
この不思議は楠栞桜の始まりを見ることで原因が解る。楠栞桜は一部の古巣のファンを引き連れて転生した。当時流行っていた運営vs演者の構図を演出し、見事自分を悲劇のヒロインへと昇華させた。鮮やかな手際、お見事。
しかしここには大きな失敗があった。楠栞桜が連れて行ったファンは、いわゆる厄介ファンだったのだ。
この厄介ファンの厄介具合は相当なものである。ファンネームをどうするかで争い、他所を見下し、推しの数字でマウント合戦、思い通りにならなければこんなの、俺の推している〇〇じゃ無いと騒ぎ出す。
まだまだある。V界隈ではユニコーンと言えば男女コラボにアレルギー反応をするファンを指すが、この厄介ファン達は格が違う。何と同性同士でのコラボでも気に入らなければアレルギー反応を起こす。さしずめユニコーンならぬ、百合コーンと言った所だろうか。要するに、中学校のクラスに大体一人はいる面倒臭い人の集まり、それが厄介ファンである。
当然、この厄介ファン共は楠栞桜が古巣を去るときも暴れに暴れた。楠栞桜が扇動したのもあるが、運営が共演者相手に迷惑をかけた厄介ファンをたしなめた結果、厄介ファンと運営の関係は悪化、一触即発の状態からの引退騒ぎだった。
厄介ファン達が運営と運営側に残った演者をひとしきり叩き満足した頃、楠栞桜は転生し、厄介ファン達を土台としてファンを増やして行った。
これらの厄介ファン達が、今も暴れている楠栞桜信者の主な出自である。ここからわかるように、信者達の多くは古巣を悪、楠栞桜とそれに味方する己たちを善と言うのを前提として行動してきた。
だから、楠栞桜を悪と認めるのは、信者達にとって己を悪と認めるのと同義なのだ。
要は今暴れている信者達は己の過ちを認めたくなくて暴れているのだ。事実、信者達の擁護は既にアンチのアンチ活動へと変貌を始めている。もはや楠栞桜を見ているか微妙である。
このような理由があるから信者達は楠栞桜がどうなろうと擁護を辞めない。しかし根底にあるのがこんなのではまともな擁護にはならない。
楠栞桜がどうでもいいわけでは無いのだろう。しかし一番なのは己自身。我欲のために集めた人間が、ことごとくそれぞれの我欲のために動く人間なのは至極納得のいく話だ。
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