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|特別|

「そっちは楽しい?」

『もっちろん! 学校の子たちと違って、わたくしの話がわかる人がいーっぱいいるもん!』

「それはよかった。学校では君についていける人はそういないだろうからね。その性格含めて」

『ねむはいっつも一言よけいー!』

 夜。常夜灯の暗いオレンジ色が部屋を照らす。目を凝らせば、机の上にうず高く積み上がる原稿用紙、脇に置かれた万年筆が見えるだろう。部屋の主、柊ねむはベッドにその身を横たえ、携帯端末を耳に当てている。

「それにしても、灯花は外国語も話せたんだね。意外ではないけれど」

『わたくし天才だもん! でも今回は新型翻訳機のテストも兼ねてるから、そんなに話してないんだにゃー。さすがにカンファレンスは専門用語も多いだろうけど』

「あぁ、まだ始まってなかったんだね」

 ねむはベッド脇の紙を手に取った。「ISCへのご招待」というタイトルの下に、デフォルト明朝体と思しき文章が印刷されている。一ヶ月ほど前、灯花が自分のもとに届いたメールを翻訳し、印刷して配ったのだ。宇宙に関する国際的なカンファレンスらしい。興味がなかったのでねむは深堀りしなかった。

『もうちょっとかにゃー。そっちはもう夜?』

「そうだね。満月がよく見えるよ」

『桜子の調子は?』

「今日は会ってないね。満月の夜は魔力が高まるって話かい?」

『うん。ウワサだから、もしかしたらわたくしたちよりも影響強いかも』

「注視しておくよ」

 変身できなくなった今でも、ねむは本を通じてウワサの状態をモニタリングすることができる。これ以上の創造は叶わなくなったが、今も彼女はウワサたちを管理し、お互いの話し相手になっている。

 そして、潮の満ち引きと同じように、体内や空気中の魔力も日によって増減する。かつて人狼や吸血鬼と呼ばれた存在は、その影響を顕著に受けた魔法少女の代表例である。マギウス時代、灯花が研究によって導き出した仮説だ。

(まあ、桜子は外に出ちゃったから、モニタリングも不完全なんだけど)

 ねむは心の中で呟いた。他人に迷惑をかけるなと、いろはからよく教育されたらしいので大丈夫だろう、そう高を括っているのだ。ねむは特に倫理を教えたことはない。

「……ねえ、灯花」

『なーに?』

「寂しいかい?」

『ぜーんぜん! ……なーんて言いたいけど、ちょっとだけ、さみしいかも』

「……そっか」

 夜空に溶けてしまいそうなほど、二人の声音は穏やかだ。

「いつでも電話をかけてくるといい。話し相手にくらいならなるよ」

『それくらいしか、僕にはできないから』

「……人の心を勝手に読まないでくれるかな」

 ねむは苦笑した。

『ねむのそういうところは嫌い。わたくしと話が通じるだけで十分すごいのに』

「君には驚かされるばっかりだよ。……ん」

 ねむはスピーカー越しの雑音が大きくなったのを感じる。

「そろそろみたいだね」

『だねー。それじゃ、そっちは夜だよね。おやすみー、ねむ』

「おやすみ、灯花」

 通話が切れる。ねむは端末を充電ケーブルに繋ぎ、窓を見上げた。カーテンに遮られていても、満月の金色はその存在感を強く放っている。ねむはしばしそちらを見つめていたが、やがて目を閉じた。しばらくして、緩やかな寝息を立て始めた。


 ……そこから遠く離れた場所。満開の桜の下、一人の少女が佇む。冬に入りかけているというのに、薄いワンピースひとつしか身に着けていない。たとえ与太者がこの地に迷い込もうとも、その超常の雰囲気に恐れをなし、手出しする意思すら芽生えないだろう。

 彼女の名は万年桜のウワサ……またの名を、柊桜子。柊ねむの作品であり、所有物であり、子供であり、姉であり……。

 彼女は睡眠を必要とせず、家も持たない。以前みかづき荘に住むことをいろはたちが提案したが、この場所もまた4人と同じくらい大切な場所であったため、辞退した。日が昇るまで考えるのは、ほとんど4人に関わることである。それで幸せなのだ。

「|……ねむ|」

 ふと、口を衝いて出た名前に、桜子は目を開いた。意識してのものではなかった。周囲を見渡しても、柊ねむどころか人の気配すらない。彼女は空を見上げる。太陽じみて輝く満月が彼女の視界に焼き付く。瞳の桜色が灯り始める。

「|……ねむ?|」

 桜子は不可解そうに胸に手を当てた。彼女はウワサではあるが、特例的に心臓を始めとする臓器が存在する。

「|……ねむ|」

 桜子は胸から手を離し、迷いなく一方向に歩き始めた。今や、彼女の瞳は上空の満月に負けないほど、桜色に強く光り輝いている。

◆◆◆◆◆

「……む」

 声が聞こえた。ねむの意識はゆっくりと浮上する。身体が何か温かいものに前方から包まれている。しかし背中のほうが少し寒い。特に何も考えず、ねむは前方の熱に身体を寄せた。

「……わいい|」

 今度は、よりはっきりと声が聞こえた。ねむは朝が弱く、まだ寝ぼけていた。ゆえに、声の正体にまで考えを巡らせることができなかった。

「んん……おかーさ……今日やすみだよ……」

 身体を包む感触が強くなった。ふわり、と嗅ぎ慣れた香りが漂った。桜の香り。

「|……ねーむ|」

 頬に柔らかい何かが触れた。ねむは重い瞼を持ち上げた。目の前に桜色の瞳があった。

「……桜子?」

「|おはよう。ねむ|」

「……おはよう」

 挨拶を返しつつ、ねむは頬に手を当てた。そして確認する。

「さっき、僕の頬に触ったかい?」

「|うん|」

「……指で、だよね?」

「|ううん|」

 桜子の指が、ねむの唇に触れる。

「|ここで|」

 桜子は幸せそうに微笑んでいた。反対に、ねむは青褪めていた。灯花が恐れていた事態が起きた……それを確信したためである。

「桜子が……おかしくなった」


|特別|


「……だめか」

 ねむは通話を切った。画面には「里見灯花」と文字が表示されている。時差からして向こうは夜、睡眠をしっかり取る灯花はもう寝ているのだろう。少なくとも今すぐの相談はできそうにない。

「|ねーむ|」

 椅子に座るねむを、桜子は後ろから抱きしめている。着替えや朝食などの介助を一通り済ませてから、ずっとこうだ。

「桜子、本の中に戻るつもりはないかな?」

「|いや|」

 桜子は即答し、抱きしめる力を強めた。そうだろうね、とねむはため息をついた。

 桜子の現状について、ねむは大体の当たりをつけている。満月の夜、万年桜のウワサは魔力の高まりの影響を受けた。その結果、里見家のサーバーに魔力が干渉し、インターネットからの情報のフィルタリングシステムに異常をきたし、本来遮断すべき情報まで取り込んでしまった……。そんなところだろう。ゆえに、灯花に一度データベースをロールバックしてもらいたかったが……。

「|迷惑?|」

 今度は逆に、抱きしめる力が少しだけ弱まった。ねむは何事か口ごもり、桜子の腕を掴んだ。

「嫌ではないよ」

 ねむはそれだけ言った。数割も伝わっていないだろう。だが、その頬は微かに赤らんでいた。桜子は「|わかった|」と再び抱きしめ直した。

「でも、今日は小説を書くから。その邪魔はしないでくれるとありがたいかな」

「|うん|」

 ねむは万年筆を手に取り、原稿用紙に向き合った。昨日までで、死を司る力を宿す桜色の魔法少女と、帯電する風を操る二本角の魔法少女の対峙を書き、ちょうど一区切りついたところだ。気分を変えるため、1990年代の魔法少女の話の続きをしたため始める……。


 ……10分後!

「……桜子」

 ねむは左手で頬をつつきにくる指を掴んだ。すると、もう片方の手が頬をこねて来た。ねむは右手で遮った。これで万年筆を握る手段はなくなった。

「|ねーむ、ねーむ|」

 桜子はひどく楽しそうだった。その姿はさながら、飼い主に甘える犬か、いたずらで親の興味を引こうとする子供を想起させる。

「邪魔をしないでほしいって言ったはずだけど」

「|うん。聞いた|」

「じゃあ桜子は何をしているのかな」

「|ねーむ、ねーむ|」

 桜子は話を逸らした。異常である。よもや創造主の話すら聞かぬほどとは。

 ねむはこの後を想像する。朝食は桜子に頼んで部屋まで運んでもらった。朝に弱いため、それ自体はよくあることだ。しかし、昼食まで運んでもらっては、さすがに何かあったのか母親に心配されるだろう。心配をかけたくはない。

 ねむは桜子から手を離し(桜子はすかさずじゃれついた)、端末に手を伸ばし、何処かへと電話をかけた。数秒して、相手と繋がる。

『もしもし、ねむちゃん? どうしたの?』

 電話の相手はいろはだった。「|いろは?|」と桜子が反応した。

「もしもし。これから桜子と一緒にみかづき荘に行きたいんだけど、大丈夫かな?」

『もちろん! 何か用事?』

「用事というほどでもないんだけど……詳細はそっちで話すよ」

 その後、二言三言会話し、ねむは通話を切った。「|みかづき荘に行くの?|」と桜子が尋ねた。その表情は微かに不満げだ。

「行きたくないのかい?」

「|いろはとういには会いたい。……でも、ねむが私を見てくれる時間が減ってしまう|」

 拗ねた子供みたいだ、そうねむは思った。灯花相手ではないので口には出さない。

「桜子のことはちゃんと見ていてあげるから。運んでくれる?」

「|……うん|」

 桜子はねむをお姫様抱っこした。車椅子まで運んでほしい、そういった意味でねむは言った。しかし、桜子は居間に向かうと、ねむの母親に「|みかづき荘まで出かけてくる|」と告げ、そのまま外に出た。

「桜子……?」

 母親の呆気に取られた表情を思い出しながら、ねむは桜子を見上げた。桜子はねむを見ず、周囲を見渡しながら、言った。

「|ねむはずっと私といるから、車椅子は必要ない|」

 桜子はウワサの脚力で屋根へとジャンプし、また別の屋根へと飛び移り、それを繰り返した。みかづき荘への直線コースである。風に吹かれながら、ねむは子供の叱り方について考え始めた。


 道行く人々は、色付きの風となった彼女たちには気付かない。気付いたとしても、疲れていたと自分を納得させるだろう。……常人ならば、だが。

「……あれは」

 しかし、その姿を確かに捉える者がいた。首からカメラを提げるその少女の名は、観鳥令。マギウスの翼の元白羽根である。

「もー、令ちゃん!」

 その腕を引っ張ったのは、桃色のツインテールの少女。牧野郁美。頬を膨らませ、令を睨みつける。

「くみとのデート中に他のとこ見るの禁止!」

「参ったね。観鳥さんは目移りしちゃう性分でさ。でも、牧野チャンのことはいつもよく見てるつもりだよ」

 令は郁美の手を握った。「調子のいいことばっかり……」と郁美は目を逸らすが、その頬は微かに赤い。

「ほら、デートなんだから! くみのこと、ちゃんとエスコートして!」

「了解しました。お嬢さん」

 令は郁美と並んで歩く。……彼女の頭の片隅には、先程の桜子たちの姿が引っかかり続けている。ジャーナリストとしての嗅覚が、何かを告げている。

◆◆◆◆◆

「|着いた|」

 ねむに負担を掛けぬよう、桜子はふわりと着地した。後の祭りである。ねむは死んだような目を桜子に向けた。その髪は爆発に巻き込まれたかのようにボサボサである。

「……桜子。僕は初めて君を叱ろうと思う。あのね……」

 ねむの言葉はそこで途切れた。桜子が今にも泣きそうな表情をしていたからだ。ねむは目を逸らして咳払いし、口をもにょもにょと動かし、ため息をついた。

「次からは、ちゃんと車椅子を使って訪ねよう」

「|……それだけ?|」

「それだけ」

 本当は、それ以上のことも言おうと思っていた。だが、自分の子供を叱って嫌われる覚悟が足りなかった。ねむはまだそこまで強い人間ではなかった。

「それより、早くみかづき荘に入ろう。最近は肌寒い」

「|うん|」

 桜子はインターホンを押した。数秒後、『はーい!』といろはの声が聞こえる。

「|ねむと来た|」

『待ってたよ! 鍵は開いてるから!』

「|わかった|」

 二人とも不用心とは思わない。侵入を企てる者がいれば、むしろその者のほうが気の毒であろう。

 桜子たちはドアを開け、玄関を上がる。すると、リビングの方向からパタパタと足音が聞こえ、見ればういが駆け寄ってきていた。待ちきれなかったのだ。

「ねむちゃん、桜子ちゃん! いらっしゃい!」

「お邪魔するよ」「|うん|」

 みかづき荘において、桜子がねむをお姫様抱っこしているのは既に見慣れた光景である。みかづき荘の造りがバリアフリーに対応していない上、無理に車椅子のまま入れば確実に床が抜けるためだ。

「……? なんだか、いつもより……?」

 しかし、ういは不思議そうにねむたちを見上げた。

「僕が疲れてるように見えるなら、正解だよ」

「あ、違くて……ううん、そうなのかなあ……?」

 ういは首を傾げながらリビングに戻った。桜子たちはその後ろに続いた。

 リビングに着けば、見慣れたみかづき荘の6人がいた。うい、いろは、やちよ、フェリシア、さな、そして……。

「……うん?」

 ねむはもう一度確認する。やちよと密着して座り、チラシを覗き込んでいる、銀髪の女を。女の側もねむたちに気付いた。数秒、彼女たちは見つめ合った。

「……みふゆ」

「違うんです、ねむ!」

 銀髪の女は……梓みふゆは、やちよの後ろに隠れようとして失敗しながら、先制して嫌疑を否定する。

「ほら……たまには休みが必要じゃないですか! 灯花だって休憩の大切さはよく口にしていますし!」

「そうだね。ところで灯花に出された宿題は済ませたのかな?」

「あ、後でしようと……!」

「典型的なダメ人間だね」

「やっちゃん〜! ねむがいじめるんです〜!」

 みふゆがやちよに泣きついた。嘘泣きである。当然、看過したやちよはみふゆを引き剥がす。

「私は勉強させようとしたのよ。でも押しが強くて……」

「なんで嘘つくんですか! 頑張ってるからたまにはって気遣ってくれたじゃないですか!」

「押しが強かったから仕方なくよ」

「ワタシそんなに押してないです!」

 二人は至近距離で睨み合った。だが、その周囲に漂うのは、どこか緩い空気である。

「詳細もいちゃつきもどうでもいいよ」

 ねむは手を叩き、その空気を壊した。桜子はねむを後ろから抱く姿勢でクッションに腰掛ける。見慣れた光景だ。

「灯花も言っていたけれど、七海やちよは口先だけで、随分とみふゆを甘やかしているよね」

 やちよの表情が険しくなった。その横で、みふゆは「やっちゃんとワタシは相棒ですからね」と得意げに頷いている。

「前はやちよお姉さん、やちよお姉様って可愛かったのに。生意気な態度に退行しちゃったわね」

「僕たちの距離が近付いたということだね。人との縁は大事だよ、七海やちよ」

 今度は彼女たちが睨み合う番だった。先程のじゃれ合いじみたものではない、かつて敵同士として対峙した際のそれである。ういが心配そうに表情を曇らせ、いろはが妹のために一歩踏み出した。

「|ねむ|」

 その時だった。ねむは頬を包まれ、半ば強制的に桜子のほうを向かされた。呆気に取られて見れば、桜子は拗ねた子供のように唇を尖らせている。

「|私を見て|」

「……わぁ……」

 ういが感嘆めいた声を漏らす。

「二人とも、いつの間にかそんなに仲良くなってたんだね。全然気付かなかった」

「あぁ、うい、さっき君が感じた違和感はもしかしたらこれかもしれないね。これは単なる魔力の暴走……まあバグだよ」

「知ってる! えっと……不具合のことだよね? 灯花ちゃんが言ってた」

「そんな感じだよ。ういは賢いね」

 ねむに褒められ、ういは「えへへ」と嬉しそうな笑みを浮かべた。その横で、いろはは「バグ……?」と小さく呟いている。

「でも、本当に不具合……バグなの?」

「どういうことかな?」

 ういの疑問に、ねむは首を傾げる。

「僕たちの仲が良いことは否定しないけど、さすがにここまでではなかったと記憶しているよ」

「でも、桜子ちゃんってねむちゃんのことは特に大好きみたいだから。おかしくないかな、って」

「ういは良い子だね」

 今度の褒め言葉には、ういはむしろ不満そうな顔をした。言葉の裏に含まれた、自嘲的な響きに気付いたためである。

「やっちゃんも昔はあれくらい情熱的だったのに」

 ねむたちを眺めながら、みふゆはやちよに囁いた。やちよは横目で見る。

「ヤキモチ妬いてたのはむしろあなたでしょ」

「そうですね。やっちゃんはいつでもどこでも人気者でしたから。思い出してまた妬けてきました」

 みふゆは腕を広げるようなジェスチャーをした。やちよは嫌そうに頬を赤らめ、「今はだめ」と告げたが、拗ねた彼女は聞こうとしない。

「……一瞬よ」

 やちよは諦めたように腕を広げた。みふゆは嬉しそうな表情をした。……その時だった。

「たっだいまー!」

 玄関から元気いっぱいの声が響いた。由比鶴乃である。鶴乃はリビングに入ると、トップスピードでやちよの腕の中に飛び込んだ!「ぐっ!」やちよの呻き声!

「ただいまーししょー!」

「あなたの家じゃ……ないわよ……!」

 やちよは引き剥がそうとしたが、大型犬は一向に離れようとせず、お腹に顔を埋めている。すぐ横でその様子を眺めるみふゆは、微かに面白くなさそうな顔をした。

「犬が2匹いる」

 フェリシアは桜子と鶴乃を交互に見て、感想を口にした。幸い聞こえていなかったようで、二人からの反論はなかった。

「なんだか、桜子さんと鶴乃さんって似てますね」

 その横で、さなもまた自身の感想を口にした。フェリシアはピンと来なかった。

「飼い主に尻尾振ってるとこがか?」

「それも……まあ、ありますけど……境遇とか……?」

「きょうぐー?」

 やはりピンと来ず、フェリシアは考えるのをやめた。しかしさな自身、なんとなく頭に浮かんだだけで、自分の言葉の意味をそこまで深く理解できていたわけではなかった。


「オムライスおいしかったー!」

 郁美は先程の昼食の感想を可愛らしく口にした。その横で、令は俯いて無言。郁美は頬を膨らませ、令の腕を引く。

「もう!」

 令は目を丸くして郁美のほうを向き、申し訳無さそうに笑う。

「はは……ごめんね」

「何かあったの?」

 郁美が心配そうに尋ねた。令は「そういうわけじゃ……」と目を逸らす。郁美は、令が首から提げたカメラを指差した。

「また触ってる」

 令は瞬きし、下を見た。確かに、自分の指がカメラに触れている。無意識だった。

「……牧野チャンは鋭いね」

 令は諦めたように笑った。

「観鳥さんの呆れた性分さ。スクープがある気がするんだ。今、手の届く場所に。それをカメラに収めたくて仕方がない……たったそれだけの理由だよ。牧野チャンとのデート中にこんなこと考えていて、本当に申し訳ないと思うよ」

「……そっか。うん。そっか。……よかった」

 郁美の返事は、令の予期しないものだった。

「じゃあそのスクープ、くみたちで押さえちゃおうよ!」

「……いいのかい? せっかくのデートなのに」

「デートって言うから重く聞こえちゃうの。くみたちがしてるのはお出かけ。ちょっとだけ、お出かけのスケジュールが変わっただけ!」

 令は目を閉じ、数秒考えた。やがて目を開き、郁美をまっすぐに見据え、「ありがとう」と言った。

 彼女たちは向かう。新西区へ。万魔殿、みかづき荘へ……!

◆◆◆◆◆

「……ん」

 ねむは欠伸を堪えた。今は昼食を終えて少し経った頃。キッチンではいろはとさなが洗い物をしている。

「|ねむ?|」

 桜子が後ろから覗き込む。「牛になるしね」と言い、ねむは首を横に振った。桜子は覗き込み続け……ねむを膝から下ろし、隣に座らせた。そして引き倒し、頭を膝の上に。

「桜子……!?」

「|眠たそうだったから|」

 慌てるねむに対して、桜子はまるで実の姉じみて慈愛に満ち溢れた笑みを向け、髪を撫でる。「やっぱり仲良し!」とういが嬉しそうにした。洗い物をしていたいろはとさなが戻ってくる。その場の全員が生暖かい目で見守っているように感じられ、ねむは「恥ずかしい……」と弱々しく呟いた。眠気は完全に吹き飛んでしまっていた。

「もっと恥ずかしい奴いるし、気にすることねーだろ」

 フェリシアはある一方向を見た。ねむは視線を追う。そこにはねむと同じように、やちよの膝に頭を乗せるみふゆの姿があった。「あぁ……」とねむは同意した。みふゆは遅れて視線に気付き、「恥ずかしい奴ってワタシのことですか!?」と今更の反応をした。

「え、えーと、そうです! 桜子さんがそうなっている理由って、本当にバグなんですか?」

 失ったポイントを取り返そうと、みふゆは身体を起こして尋ねる。フリーになったやちよの膝を、鶴乃が目だけで一瞥する。

「そう推測しているよ。満月の夜は魔力が高まる、灯花の仮説だよ。インターネットから変な情報でも食べちゃったんだろう」

「……どうして魔力が高まると変な情報を取ってきちゃうんですか?」

「こういうのは灯花の専門なんだけど……。みんながもう知っているように、桜子は里見家の所有するサーバーに接続していて、知識や記憶はそこのデータベースに溜め込んでいる。桜子は不思議なIPを持ったクライアントのようなものでね、電波の届かない場所でもなぜかリアルタイムに同期することができる。空気中の魔力を媒介に繋がっているというのが僕たちの仮説で、それなら無響室のように魔力が遮断された空間に桜子を置いたらどうなるのかっていう実験を……おっと、話が逸れたね。また、そのサーバーはインターネットとも接続していて、クローリングしたりAPIを叩いたりして日々情報を取得しているわけだけど、当然そんなものは教師データとして玉石混交すぎる。そこでフィルタリングをする必要があるんだけど、昨夜の魔力の高まりによって、桜子とは直接接続していないそのフィルタリング学習モデルにまで影響を及ぼしてしまい、本来前処理で捨ててしまうべき不要データまで通してしまった、そういうことだよ。もっとも、まだ灯花に話を聞けていないから、僕個人の仮説でしかないけどね。あぁ、ちなみに学習モデルは一日に一回バックアップをストレージに上げているから、正常な状態に戻すのは簡単だ。……みふゆ、理解できた?」

「魔力が高まると変な情報を取ってきてしまうんですね!」

「……そうだね」

 みふゆの朗らかな笑顔に、ねむはただ頷いた。元々理解は期待していなかった。

「それじゃあ、他の子たちもそうなの?」

 ふと、ういが尋ねた。ねむは「他の子?」と起き上がろうとし、桜子に押さえつけられて断念した。

「他のウワサの子たちも、まだねむちゃんの本の中で生きてるんでしょ? その子たちも影響受けてるのかなあって」

「……確かに、ない話ではないね」

 ねむは桜子に目配せした。桜子は名残惜しそうにねむの髪を撫でてから下ろすと、持ってきたバッグから本を取り出した。辞典じみて分厚い、全てのウワサが刻まれた本である。「神浜うわさファイルの完全版だー」と鶴乃がなんとはなしに言い、やちよが少し寂しそうな表情をした。聞いた噂をまとめたり、どれがウワサに繋がる噂か考える作業を、それなりに気に入っていたのだ。

「ちょっと調べてみようか。桜子、ついてきて」

 ねむは本を受け取りながら言う。桜子は「わかった」と返し、あくまでねむを抱きかかえて座った。「ついていく……?」と、いろはとさなは顔を見合わせる。

 ねむは適当なページを開くと、目を閉じ、ホームポジションめいて手をかざした。指先と本が魔力の糸で繋が101り、01001瞼の裏に11010無数の01が0001001流れ0010101

000101010101010100101

1100101010しぶりに来たよマッテマテ|」

 ねむが目を開くと、逆さになったマチビト馬のウワサが目の前にいた。「うわ」と、ねむは仰け反る。

「>|ねむが怖がっていますよ|」

「|嬉しくて寄り過ぎちゃった寄り過ぎちゃったよマッテマテ|」

 名無し人工知能のウワサに咎められ、マチビト馬はすまなそうに後ろに下がった。

「いいよ。元気そうで何よりだ」

 ねむは笑いかけ、空中を蹴ってマチビト馬の頭を撫でた。蹴られた場所で01の飛沫が散った。

 ここはウワサたちを保管する、本の中に構成された空間である。創造主である彼女は、今でもこの空間を自由に出入りすることができるし、ここでだけは足を動かすこともできる。重力の概念が存在しないため、大地に立つ感覚を味わうことは叶わないが。

「|ねむ|」

 桜子が右上からやって来て、130度円盤じみて回転してねむと向きを合わせ、腕を抱く。彼女の服は、桜の下にいたときと同じワンピースだ。

「|ねむグル!|」「|ねむパカ!|」「|ザバーザバー……!|」「|知ってる見てる記憶してるよ創造主|」

 遠くから他のウワサたちも集まってくる。ねむは「ちょっと聞きに来ただけなんだけど」と漏らしつつも、悪い気はしないとその顔にはしっかり書かれている。

「>|さなは元気ですか?|」「|絶交シた二人ハ最近どウ?|」「|鶴乃は元気グル!?|」「|知りたい記憶したい。あなたの名前、教えて|」

「ごめんね。今はみんなを待たせてるから。そのうち聞いてあげるから、僕の質問に答えてほしい」

 ねむの答えに、ウワサたちは少し落ち込んだ雰囲気になった。「|ザバーザバー?|」ミザリーリュトンのウワサが、質問は何かと尋ねる。

「そうだね……。まず、桜子の異常の原因を知っている子はいないかな?」

 ウワサたちはお互いに顔を見合わせるような仕草をした。彼らを代表して、名無し人工知能が答える。

「>|確かに普段より雰囲気が柔らかいですが、大体こんな感じではないのですか?|」

「だいぶ柔らかいよ……。知らない感じだね。それじゃあ、次に。昨夜、どうにも落ち着かなくなったり、いつもと違うと思ったことはないかな?」

「>|それならあります。実体を与えられていたときのような、魔力の充実感がありました|」

「|ザバーザバーザバー!|」

 ミザリーリュトンが同意した。ふむ、とねむは頷いた。やはり魔法少女よりもウワサのほうが満月の影響を受けやすいのは間違いない。

「ありがとう。聞きたかったのはそれだけ。そのうちまた来るよ」

「|鶴乃は! 鶴乃は元気グル!?|」

 本からログアウトしようとしたねむに、キレートビッグフェリスのウワサが追いすがる。「そんなに気になるのかい」とねむは呆れた。

「元気だよ。今日も七海やちよに抱きついて、塩対応をされていたね」

「|……ひどいグル|」

 キレートビッグフェリスが呟いた。ねむは眉根を寄せる。

「|鶴乃はいい子グル。それを、そんな邪険に扱うなんて……ひどいグル!|」

「七海やちよは素直じゃないからね。親しい相手にほど意地悪しちゃうんじゃないかな」

 僕もそうだしね、とねむは灯花を思い浮かべる。キレートビッグフェリスはわなわなと震え……叫んだ。

「|マスコット! 行くグル!|」

 その時、キレートビッグフェリスの陰に隠れていた、キレートマスコットのウワサが駆け出した。「|パカ!|」そして、01と化して消えた。

「まさか……!?」

 ねむは驚愕した。桜子以外のウワサは既に実体を持たず、この本に縛られている。あのように消えるはずがないのだ。もし消えるとしたら……!

「桜子、戻るよ……!」

 ねむは目を閉じた。011行きと同じように100101瞼の裏に01の流れが100010001010

010100101010011010010

10001011んだッてんだよ!?」

 意識が覚醒してまず飛び込んできたのは、フェリシアの困惑の叫びだった。ねむは肉の重みにやや気持ち悪さを覚えながら、目を開いた。

「やーちよー」

 人工物じみた緑色の髪、死人じみて白い肌、魔力を秘めた赤紫の瞳。それが、今の由比鶴乃の外見だった。ウワサの一部と化した鶴乃である。そんな彼女は、なぜか、七海やちよにしなだれかかっていた。

「わたしとのんびりしようよー、やちよー」

「ちょっと、鶴乃……!?」

 やちよは気圧されているようだった。ウワサの鶴乃は妖しく微笑むと、やちよの太ももに手を置いて、なぞるように動かした。「わ、み、見ちゃダメ!」と、いろはは反射的にういの目を覆った。

「そういう冗談は感心しませんよ、鶴乃さん」

 鶴乃の手を掴む者があった。梓みふゆ。彼女の表情からは先程までの柔らかさは消え、年長者たる威厳を醸し出している。鶴乃は眉ひとつ動かさず、にたりと笑みを作った。

「冗談じゃなくて本気ならいいの? やちよとのんびりしたいっていうのは本気なんだけどなあ」

「そういう問題ではありません。やっちゃんが嫌がることをしないように、ということです」

「嫌がってるようには見えなかったけど」

 二人の女の視線が衝突する。昼下がりの陽射しに似つかわしくない、張り詰めた空気がリビングを満たした。

「柊さん、鶴乃を元に戻して!」

 やちよが助けを求めた。ねむは首を横に振った。

「満月が原因なら、明日にでも元に戻ってるはずだよ。それに、その修羅場は自らの行動が招いた結果だろう。身から出た錆、因果応報、自業自得……。さぞ堪能するといい」

「できるわけないでしょう……!」

 やちよはモデルに似つかわしくない、攻撃的な表情になった。……一瞬後、「誰!?」と叫び、窓の外を見た。その場の全員が同じ方向を見た。

 視線の先にいたのは、遠い屋根上、金髪の長いサイドテールの少女と、桃髪のツインテールの少女。前者はカメラを構え、こちらに向けている。

「令、郁美……?」

 ねむが呟いた。二人は屋根から飛び降り、見えなくなった。

「追って、今すぐ!」

 やちよが窓の外を指差した。必死の形相である。カメラを向けられている時、それを第六感めいて察知することができる……モデルのスキルツリーを伸ばした先で得た、パッシブスキルである。

 対するねむは、深々と桜子に寄り掛かる。

「有名モデルの修羅場、確かに大スキャンダルだね。でも、僕はそれを止める理由を持ち合わせていない。だから桜子も行かせない」

 この中で、最もあの二人の魔力パターンに詳しいのは、ねむを覗けば観鳥令と同じ学校の桜子である。それを知っているからこそ、ねむはここまで横柄な態度を取っているのだ!

「いいえ。あなたはあの二人を追わせる必要がある」

 しかし、やちよは不敵な笑みを浮かべた。ねむにとって、それは不快な笑みだ。

「ウワサは全て回収した……あなたはそう言った。でも、こうして鶴乃がウワサの一部となってしまっている。これはあなたがウワサを制御しきれていないと捉えられてもおかしくないんじゃないかしら」

「……だいぶシリアスに脅すね。少し引いているよ」

「私だって必死なのよ。誤解でスキャンダルなんて最悪よ」

 果たして誤解かな。ねむはそれは言わないでおき、かわりにため息をついた。そして桜子を振り向いた。

「桜子。令たちを追って、SDカードを破壊してきてほしい」

「|……ねむと離れたくない|」

 桜子は拗ねた子供じみて、抱きしめる力を強めた。ねむはあやすように頭を撫でる。

「やり遂げた暁には、もっと甘やかしてあげるから」

「|……本当に?|」

「嘘はつかないよ」

「|……わかった|」

 桜子はねむを横に座らせた。そして、やちよを親の仇のように睨みつけ、玄関から飛び出して行った。「なー、結局鶴乃はほっといていいのかよ?」とフェリシアが尋ねた。「多分ね」とねむが答えた。

◆◆◆◆◆

「まさかあの距離で見つかるなんてね……! さすがは大モデル! さすがは七海やちよだ!」

「なんで嬉しそうなの! というより、こんなところに隠れなくても……」

 郁美は今自分がいる場所を見回した。廃棄された工場だろうか。全体的に黄土色であり、そこかしこにドラム缶や、置いていかれたと思しきコンテナが積み上がっている。令は窓の陰から外を覗き見ながら答える。

「考えが甘いよ、牧野チャン! モデルにとってスキャンダルは最悪だ。地獄の果てまでも追ってくるはず……!」

「わかるけど……。でもやちよさんもすぐには動けなそうだったし……」

「他にも恐るべき尖兵がいるじゃないか。深月フェリシアは嗅覚も鋭そうだし。それに……」

 KRAAASH! ガラス窓が割れた! 令たちは振り向く!

「……それに、あの子もいるしね」

 令は渇いた笑みを浮かべた。万年桜のウワサはゆっくりと立ち上がり、左手に魔力の剣を生成する。

「こっここ……こわぁ~っ!」

 郁美が震えた。彼女の視界には、万年桜のウワサが死神のように映っていた。

「|令。抵抗しないでSDカードを渡して。そうすれば傷付けない|」

「……嫌だ、って言ったら?」

「|……私は、4人のためのウワサ|」

 万年桜は剣の切っ先を令に向けた。「令ちゃん!」郁美が肩を揺する!

「交渉する気はないかな?」

 令が問いかけた。万年桜は無言だが、まだ攻撃は仕掛けない。

「たとえば、そう。SDカードは渡せないけど、今撮った写真は絶対記事にしない。約束するよ」

 万年桜は一歩踏み出す。

「だよね。この程度じゃダメ。じゃあ、追加で……君の妹の可愛い隠し撮り写真をあげよう」

「令ちゃん!? くみそれ逆効果だと思う!」

 郁美は信じられないとでも言いたげな目を令に向けた。だが……おお、万年桜は立ち止まった。令のジャーナリストとしての目は、瞳の奥に迷いが生まれたのを確かに読み取る。

「|それはどこ?|」

「まだない。これから撮る予定だからね。でも約束は破らないよ。そうだね……一週間以内には必ず」

 二人は睨み合ったまま動かなかった。郁美は困惑した目で二人を交互に見る。……やがて、桜子が剣を収め、令に手を差し出した。令はその手を握った。

「交渉成立、だね……!」

「|約束を守ってね|」

「必ず」

 二人は力強い握手を交わした。テンションについていけず、郁美は一人ドン引きしていた。


 ……「|戻った|」

 みかづき荘に戻ると、みふゆと鶴乃の険悪な睨み合いは未だに続いていた。特に興味も湧かなかったので、桜子は一直線にねむを目指し、抱きついた。

「|ねーむ、ねーむ|」

「おかえり、桜子。データはちゃんと……」

「|うん。壊してきた|」

 嘘である! 桜子は嘘をついた!

「そうか。ありがとう、桜子」

「|約束|」

「言われずとも、甘やかしてあげるから」

 だが、ねむは桜子が嘘をつくなど微塵も疑わず、その頭を撫でた。本来そんなことはありえないのだ。なんたる柊桜子に発生したバグの重大さか……!

◆◆◆◆◆

 空が橙色に染まる。黒いシミじみたカラスがゲーゲーと鳴き、遠くからは子供の笑い声が聞こえる。

「|ねーむ、ねーむ|」

 桜子の様子は未だ元に戻っておらず、首筋に鼻先を埋めている。やはり明日まではこのままだろうか。それとも、もしかするとずっと……。

(合理的じゃない)

 ねむは頭を振った。もし灯花がここにいれば、余計な思考に使うエネルギーがもったいないと嘲っただろう。それに、桜子の瞳の桜色も朝より弱くなっている。

 ともかく、今日いっぱいはこのままだろう。幸い、明日も休みだ。今日はみかづき荘に泊まり、桜子の相手をする。もし明日も続くようであれば……その時はまた何かしら考えなければいけないだろう。ねむは家に泊まりの連絡を入れつつ考えた。

「……あれ、電話」

 ねむが通話を切ると同時に、テーブル上に置かれたういのスマートフォンが光った。ういは手に取り、「灯花ちゃん?」と呟いた。「灯花?」ねむの意識はそちらに吸い寄せられる。

「僕も聞きたいから、スピーカーモードにしてくれる?」

「わかった。えっと……こうだよね」

 ういは数回スワイプし、テーブルにスマートフォンを置き直す。

「もしもし、灯花ちゃん?」

『ういー……おはよー……。ねむにかけても繋がらなくって……』

「僕に?」

『ねむもそこにいるのー……?』

 寝起きなのか、灯花はいつにも増して舌っ足らずな口調だった。ねむは着信履歴を見る。確かについ先程、灯花からの着信が来ている。

「お母さんに電話してたときか……。随分なタイミングでかけてきたね」

『最初にかけてきたのはそっちでしょー……。で、夜の着信はなに?』

「桜子にバグが発生してね。多分昨夜の満月でフィルタがおかしくなったんだと思うんだけど。そっちからデータベースのロールバックをできたりしないかな」

『できるけど……どんなバグ?』

「うーんと……」

 ねむは桜子が頬にキスしてきたことを思い出す。さすがにあれは言わなくても良いだろう。

「甘えてくるようになった。抱きついてきたり、頬ずりしてきたり」

『ふーん……。……はあー!?』

「うわっ」

 ねむは耳を押さえた。ういは一瞬遅れてしまったようで、目を回している。

『どうしてもっと早く連絡してこなかったのー!』

「起きてすぐにしたよ。でも灯花は既に寝ていたじゃないか」

『…………! にゃあー!』

「もうちょっと静かにしてくれないかな……ういにトラウマを植え付けたくないのなら」

『うるさいうるさーい! ねむのバカ!』

 ブツリ、と通話が切れた。灯花のよくわからない沸点に呆れつつ、ねむはういにお礼を言ってスマートフォンを返した。「びっくりしたー」と呟き、ういはスマートフォンを受け取った。

「さて、そろそろ……」

 ねむは桜子を見下ろした。桜子は可愛らしく首を傾げる。ねむの見立てでは、データベースのロールバックと同時にバグも解消。騒動も一件落着するはずである。

 1分が経った。桜子の様子に変化は見られない。3分が経った。まだ見られない。5分。10分。……様子に変化はない。

「おかしい……」

 本当にロールバックしたのだろうか、ねむは灯花に確認のメッセージを送った。すぐに『とっくにしたよ!ベーだ!』と憎たらしいメッセージが返ってきた。

「そんなはずは……」

 ならば、今桜子に起きているこの現象はなんなのか。フィルタリングミスによるバグでないならば、いったい。

「今から買い物に行くけど、柊さんたちも来る?」

 その時、上階から降りてくるやちよによって、ねむの思考は中断された。いろは、さながその後ろに続いている。鶴乃はみかづき荘への出前のためにウワサのまま一時帰宅、フェリシアは遊んでくると言い残し消えた。みふゆはだらしなくソファに横になっている、灯花からの宿題をする気配はない。

「いや、僕は……」

「行こ、ねむちゃん! わたし、ねむちゃんがどんなお菓子買うのか知りたい!」

 辞退しかけたねむの手を、ういが握った。ねむは瞬きし、微笑んだ。申し出はありがたかったが、どうしても行けない理由が彼女にはあった。

「車椅子を家に置いてきちゃったからね。桜子にお姫様抱っこされてスーパーは回れないよ」

「あー……」

「|私は別に構わない|」

「僕が構うんだよ。そうだね……僕はみふゆの勉強でも見てるよ」

「えっ!?」

 みふゆは反射的に起き上がって、信じられないものを見るような視線をねむに向けた。ねむは冷ややかに見返した。

「まさかとは思うけど、宿題まで置いてきたわけじゃないよね?」

「い、いえ……持ってきては、います、が……わ、ワタシもお買い物のお手伝いを!」

「みふゆは勉強しなさい」

 やちよの氷めいた拒絶!

「じゃあ、始めようか。みふゆ」

「サボったら容赦なく叱ってくれていいわよ」

「ひぃ……!」

 みふゆは怯えたように縮こまる! その様子に、ういがぽつりと呟いた。

「かわいそう……」

 それは、二人に責められるみふゆを、ただ純粋に心配しての発言だった。しかし、それはトドメの一撃となって、みふゆは床に倒れ伏した。いろはとさなは苦笑いしていた。

◆◆◆◆◆

「結局、君に起きたバグはいったいなんなんだろうね」

 夜。客用にあてがわれた一室で、ねむはベッドに腰を下ろしていた。当然のように彼女を後ろから抱く桜子は「|わからない|」とだけ答えた。闇の中にあっても、桜子の瞳はぼんやりとした桜色に光っている。

 満月がもたらした魔力は予想以上に凄まじかったのか、鶴乃に宿ったウワサもまだ本には戻っていなかった。やちよと一緒に寝るのがどちらかということでみふゆと揉めていたが、結局どうなったのだろうか。両者とも譲る気はさらさらなさそうだったが……。

「|そもそも、私は私にバグが起きているとさえ感じられないから。確かに記憶の私とは傾向が異なるけれど|」

「傾向が違っても、本人からしたら自然な感情の流れなのかな……。君たちの親なのにわからないことだらけで、情けない限りだね」

「|ねむは情けなくない|」

 桜子は少し怒ったようだった。ねむは「ごめんね」と謝り、横にしてほしいと頼んだ。桜子はねむをベッドに横たえ、掛け布団をそっと乗せた。そして自身もその内に潜り込んだ。ねむは今更驚かなかった。

「まあ、明日には灯花も帰ってくるはずだ。桜子には悪いけど、それまでの辛抱だね」

「|私は別にこのままでもいい|」

「どちらかと言えば、困るのは僕のほうかな」

「|……ねむが困るのはいや|」

「いい子だね」

 桜子はねむの胸に顔を埋めた。ねむがあやすように頭を撫でた。心臓の音、呼吸で膨らむ胸、体温。桜子はねむに包まれている気がした。

 やがて、ねむの呼吸のリズムが一定になった。頭を撫でる手も止まっている。桜子は顔を上げ、眠るねむを見つめた。

「|……ごめんなさい|」

 桜子は謝った。何に対して? ねむを騙したことについてである。それは令の撮影データを破壊した嘘にとどまらない。夕方になった時点で、桜子は満月の影響をほとんど振り払えていた。

 桜子はウワサの中でも強力な部類である。いくら魔法少女よりも満月の影響を受けやすいとはいっても、その分影響の克服も早いのだ。

 確かに、朝の時点では彼女は魔力の影響を受けて、ねむに甘えたがりになっていた。しかし、フィルタリングのアルゴリズムのバグゆえではない。桜子はもう自覚している。それが自分の奥底に宿る、ウワサの内容に縛られたものではない、自分自身の欲求であると。魔力の影響とはすなわち、欲求の箍が外れたことであると。

 影響を克服した夕方にも、彼女は嘘を続けた。これが本当に、自分の本心なのか確かめるために。そして、彼女の胸の高鳴りは、事実を否応なく、無慈悲に、突きつけた。

「|……ねむ|」

 桜子は囁いた。ねむの反応はない。呼吸や心臓のリズムから、これがフリでないこともわかる。桜子はねむの頬を指でなぞる。

 万年桜のウワサは、4人の少女を待つウワサである。ゆえに、4人のことが他の誰よりも特別だった。それは今でも変わっていない。……だが、その中でも、特別が生まれようとしている。彼女はウワサの内容を改変され、一度生まれ変わった。今度はそれほど劇的なものではないだろう、しかし、確実な変化だ。

 変化の先に、何が待っているのか。桜子は少し恐ろしかった。……だが、それ以上に、楽しみだった。

「|……大好き|」

 桜子はねむの頬に口づけした。今度は魔力の影響を受けず、自分の意思で。

◆◆◆◆◆

「先日は悪かったね」

 昼休み。桜子の前の席に腰を下ろしつつ、令は謝罪した。桜子はサーバーに問い合わせ、隠し撮りの件だと思い至る。

「|あれは別に……|」

 桜子は気まずそうな顔をした。あの時、彼女は私利私欲のためにねむを騙してしまった。あの時はまだ満月の影響下にあったとはいえ、やはり許される真似ではなかった……。

「約束のものさ」

 令が一枚の写真を差し出した。桜子は固辞しようとして……固まった。

 写真に写っているのは、原稿用紙の束を手に、満足げな笑みを浮かべるねむの姿だった。執筆を終えた直後だろうか。ねむ独特の笑い声さえ聞こえてきそうである。撮影の角度からすれば、やはり隠し撮りではあるが……。

「|……ありがとう|」

 自分の感情に従い、桜子は受け取った。令はやや考え……カメラを構えつつ、言った。

「本当に親が……おっと、妹さんが大事なんだね」

「|……うん|」

 令はシャッターを切った。

 そこには、幸せそうに笑みを浮かべる桜子が写っていた。


|特別| おわり

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