生きづらさを稽古する
身体的なお稽古事をおすすめします。
気取りや見栄のためではありません。
身体運用の合理性や実用性が、めっぽう上がるからです。
ハードウェアのOSそのものが変化します。
その変化は日常生活に、音もなく波及します。
仕事で60枚くらいの皿やお椀を洗うことがあります。
最初の頃は肩と腰が辛くて、めちゃくちゃしんどかったです。
ですが今はなんともありません。
筋肉がついたわけではなく、力の抜き方を覚えたからです。引き算ですね。
車にたとえると、燃費が倍以上に上がっています。
アメ車からハイブリッドカーに乗り変えたくらいの差があります。
や、車って買ったことはないですが。
以来、コリとは無縁です。
舞踊や茶道、華道などの文化遺産は、特定の社会階級の人々に向けてのみ開かれがちです。敷居が高そうですよね。
伝統ジャンルは一見ハイソで気取っていますが、その内実は、合理性を尊ぶものです。機能美を徹底して追求すると、自然と合理性や真善美もついてきます。
ハイクラスの人々がああいったものに時間を割く理由が、今でこそ分かります。
端的に、お金で買えない価値だからです。
病気やケガと無縁の性能のいい「野蛮な身体」は、いくら札束を積んでも、決して買えません。怖い先生にしばかれながら、体で覚えることが大半です(私は幸いこういう教わり方をしたことがないのですが)。
お金で買えないからこそ、そこに庶民とは違う特殊な価値が付与される。
ある種のブランド性ですね。
こういったハイクラスの振る舞いを、たしか社会学で「文化資本」「ハビトゥス(身体化された教養)」と呼んだ覚えがあります。ブルデューという学者が提唱しました。
お金持ちが回り回って精神性を追求するというパラドックスが、この話の肝です。
自由が丘の高級住宅街には、良質のヨーガ道場や気功教室がたくさんあります。
それはお金持ちの人が多いからです。
物質的なぜいたくにすでに飽和している人々が、さらにぜいたくで高級な遊びに目覚めるわけですね。
野口整体も例に漏れず、整体協会はあえて敷居を高くしています。
会報誌を見たら、細則がうんざりするくらいありました。
お金も相応にかかるのでしょう。
そのやり方の、半分くらいは正しいのかもしれません。
でも残り半分は「違うな」と、私は思います。
選民主義っぽいじゃないですか。
なので私は、自分で稽古を勝手に主催したい。
私の祖父師・浜田先生は整体協会で、8年稽古をしていました。
ですので当方の野口整体は、そこからリークアウトした技術だといえます。
祖父師も師も、基本的に組織活動になじまない人なので、私もその影響を受けています。
開業までに、自分の稽古をもう200回やるつもりです。
でも今のうちから、場を開く練習もしたい。
まだまだ未熟ですが、自分で伝えられることは全力で伝えたいと思います。
現代人のみみっちい生き方に疑問を持つ人は、稽古をしましょう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?