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物語り 愛と涙と星のきらめき 5

 そぞろ歩きを楽しむ人に混ざって、商店街が軒を連ねる街路を歩いた。
 辺りを覆いはじめた薄闇のなか、目の端にチラチラ映り込む店の灯火が、やっとの事で意識を正常に保っている気がする。


 あの時、アルバムを捲っていた梨花の視線が一枚の写真の上でピタリと止まった。

 執務室と思われるデスクの椅子にゆったりと座したスーツ姿の紳士。
 几帳面な字で「父」と添え書きがあった。  

 短い時を遡るような一瞬の沈黙の後、梨花は呟くように言う。
「私の父よ。四年前に亡くなったの」

 そして…それは突然始まったと言っていい。
 梨花の目元が伏し目がちな瞼を上目遣いに押し上げ、瞬いてはまた瞳を落とし下瞼の縁を左右に揺れ動いているのに気がついた。
 オドオドと周囲を伺い、ひどく気遣う様な眼球の動き——梨花が梨花でない様な打ちのめされた様子が何より尋常で無かった。

 その様子は瞬時に消え去り、驚いた私の表情に出会うと
「ん、何か?」と何事も無かったと言うように、誤魔化しとは思えない確かな笑顔を向けたのだ。
 ……私は言葉を失った。
 今までにない大きな謎が沈潜しては浮上を繰り返し、潜水病にかかったような息苦しさに襲われ、それは今も続いている。

 四辻を通り過ぎたとき、不意に鮮やかな色彩が目に飛び込んで来た。
 花屋の店先のフラワーポットに盛られた色とりどりの薔薇やチューリップの花々だった。
 鮮やかな色彩はぼんやりした目にとどまり、遠ざかっていた現実がはっきり蘇える。

 早く家に帰らなければ…このまま彷徨っていたら謎は深まるばかり。


 その日の夜——
 明るい星月夜が広がる窓際のベッドの中で、私は星座図鑑を手に降り注ぐ星々の光芒を見つめていた。

 ——アルデバラン、知ってる?

 透き通った声の広がりが沁み入るように胸裏をかすめる。
 牡牛座の主星アルデバランは冬の星座…だから天を仰いでも今は見る事ができない。 
 図鑑の中に牡牛座の主星、オレンジ色に輝くアルデバランを見つけた。

 ——私はフェニキュアの王女、エウロぺよ

 オリンポスの主神ゼウスによって無防備のまま、未知の国クレタ島に連れ去られたエウロぺの恐怖と悲しみはゼウスの必死の説得によって沈澱してゆく。
 そしてゼウスの寵愛を受け入れたエウロペは、三人の王子を産み幸せに暮らしたと神話は結んでいた。

 自身をエウロペに投影した加奈の思いは、神話の世界に守られながらその幸せに行き着くことを切望しているのだろうか。

 梨花のこともあって、私は帰宅早々兄の本棚から心理学に関する本を読みあさった。   
 今日の気がかりを少しでも解決しなければ眠れそうになかったからだ。

 加奈の症候は紛れもない人格の分裂。耐え難い現実がその病を生む…とあった。
 梨花は、加奈が施設に入所しているとは言ったが病状には触れず—貴女が見た通りよ—と言うニュアンスで仄めかすだけだった。

 そしてその梨花本人。
 突然揺れ動く眼球運動は過剰なストレスによるものだと言う記述をみつけた。

 いずれも何らかの不幸に起因していることは確かだ。
 可哀想な梨花と加奈。
 こんな私でも手を差し伸べ、出来ることはあるかしら ……私の思いは、ただただそれに尽きる。でもどうやって?

 解決したはずの気がかりはまた新たな深みへと導いてゆく。


 浅い眠りの中で夢を見た。

 あれは——初めてのピアノ演奏会

「先生、アラベスクよりこの曲が弾きたいの」
 発表会用にあてがわれた曲を変更してほしいと申し出た曲は、大好きなモーツァルトのきらきら星変奏曲。
 4歳の私にはどうかしらと言う先生の懸念をよそに、その日のために一生懸命練習してステージに立った。

 曲は愛らしい主題に始まり、バリエーションが進むにつれて現れる細かいパッセージを私は軽やかに弾きこなす。小さな手指をいっぱいに広げて。

 いつの間にかステージは星空の野外ステージに変わっていた。

 曲が高揚して終わろうとした時舞台の幕が下りるように、星の瞬く暗いしじまからいく筋もの光の帯が降り注ぐ。
 喝采を送るように、星のきらめきとピアノの余韻が何時迄も私の周囲を巡っていた。

 黄色いチュールのワンピースを纏った4歳のわたし……


                                  ☆

 加奈は食卓に用意された母の手料理をあっという間に完食してしまった。
「あー美味しかった!こんなおいしい料理食べた事ないよ」と冗談めかして称賛する。

 母はまともに受けて訝った。
「これって、加奈が前から好きで良く食べてたものばかりよ?」

「そう、分かってるわ。味付けのことを言ったのよ。それに嫌いなものは何ひとつ無いもの。“あそこ“みたいにスープは冷めてないし…お母さんが作ってくれる私の為の食卓だから本当に美味しい」

「そう、良かった」
 母は安心してテーブルの食器を片付け始めた。

 二人のやり取りを聞いていた梨花は耳を疑った。
 加奈が言い足りない自分の言葉にちゃんとした意味を与えて説明している——

 父が亡くなって以来、辛い悲惨なめにたくさんあって、寡黙に引きこもってしまった加奈がわずか二ヶ月の入院でこんなにも変わるのだろうか。

「温かいミルクはどう?」
 温めたミルクのカップを手渡すと加奈は両手に包み込む様に受け取った。

「お姉ちゃん、寒いの?」

「ううん、そうじゃないけど。温かいミルクは寝つきを良くするって言うじゃない」

「そうらしいね。でも私はいつも寒いの。いつもなの」

 (知ってるよ、加奈。主治医の先生が言ってたもの)

 その冷たさは肉体の冷たさではなくて、心の内側からくる冷たさらしい。
 傍目に寒そうと感じる景色とは比較できないほど真冬の荒涼とした外気に晒されていいる。背中を丸め膝を抱え込む仕草もその寒さから身を守る防衛手段なのだと言う。

 加奈は病院に持ち帰るからと言ってクローゼットからパーカーやセーターを探しだしてキャリーバックに押し込んでいた。そして服薬後、一番お気に入りのパーカーを羽織って自室に引き揚げていった。








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