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小話・空の神秘と白いアナベル
夜半に雨が上がった早朝——濡れそぼった灌木の葉上に、風が吹き結んだ露の玉が幾つもこぼれ落ちそうになっていた。
顔を寄せてふうと息を吹きかけると、露の玉はぷるっと震えながら透明な球体をしなわせ、転がりこぼれて根元の下草に落下する。童心に帰って遊ぶ雨上がりの悪戯はとても楽しい。
歩を進め林の道にさしかかると、樹幹に絡みついた忍冬(すいかずら)が白い花をつけ始めていた。
ジャスミンにも似て馥郁と香る甘い芳香に心誘われるが、何よりも忍冬という名の通り冬の寒さをよく耐え忍び、四季を通して青々とした葉を繁らせる姿が私好みの植物なのだ。
その樹間から望む谷向こうは深山のような滴る緑が目に映える。
時として狭霧が谷に流れ込み入海のように浸るとき、その景色は全く別の世界を見せてくれることがある。
静寂と神秘が朝のしじまを隈なく包み、まるで空と波と光輝のさなかに在る様な……
こうして葉叢の濃い団地の外周を、きりりと引き締まった早朝の大気と自然を独り占めしながらの散歩が日課になっていた。
ある日のこと。太陽が東の空を駆け上り木立の梢に差し掛かった時、ふと見上げた上空に——虹が。
虹?………いやいや虹よりもっと煌びやかな色彩をまとった虹色の雲が浮かんでいた。
真綿を薄く引き伸ばしたような白い淡雲の網目の縁に、色とりどりの輝石をあしらったかのような虹色の雲。
太陽の光が持つ色彩が薄い雲の網の中に紡ぎ込まれ、虹同様に美しい空の現象となって目に映っているのだ。
無意識にカメラ——と思って落胆する。
気散じの散歩だから、カメラなど持ち歩くこともないし、趣味もない。ならばこの目に焼き付けようと、色彩を拾っては宝石の色に喩え始めた。
深い青は瑠璃——ラピスラズリ? 緑はエメラルド、ブルーはターコイズ……で、トルコ石?、深紅はガーネット、えーと紫は——
和名、洋名ごっちゃになった頭でもぐもぐ呟きながら空を見上げていると、背後で女性の笑い声がした。
振り向くと白壁の塀の向こうに、木賊色(とくさいろ)の麦わら帽子を被った婦人の顔がのぞいている。
いつも門扉の間からよく手入れされた庭木を眺めながら通り過ぎていたが、今日は水やりの最中に出くわしたようだった。
傾斜地に造成された団地はほとんどが盛り土で、雨が降ってもすぐに地下に浸透してしまう。とりわけ暑い夏場は前日の降雨にも関わらず朝の水やりが欠かせない。
婦人は水栓を止め門扉を開けて話しかけてきた。
「彩雲を見てらしたの?」
「彩雲? 彩雲て言うんですね、あの虹色の雲。あまりに綺麗で見とれてました」
「綺麗でしょう。雨上がりのよく晴れた日が最高なの」
麦わら帽子の鍔を上げて空を仰ぎ、今朝のはひときわ美しいと言う。
「太陽の光が大気中の雨粒に反射するのが虹で、雲の中の雨粒に反射するのが彩雲。屈折とか回折とか言うらしいけど難しい事は分からなくって…簡単に言えばそういう事みたい」
説明を聞きながら、私は——空のそれよりも濃い水色——のターコイズブルーに目を奪われていた。
「ちょっと見て。虹ならいつでも何処でも見られるわよ」
婦人は悪戯ぽく笑っていそいそと水栓を開け、ホースの先を絞ると勢いよく上空に向かって放水した。すると弧を描いた霧状の水流の中に小さな虹が立った。
別れ際「彩雲は吉兆の知らせだそうよ。きっといい事がありますように……」そう言って、白い手毬のようにふんわりした大きな花をひと茎下さった。
「もうとっくにいいことに出会ってます。だってこんなに素敵なお花を頂いたんですから」
私は重たい花のかしらを手の中に支えながらお礼を言った。
「アナベル、って言う紫陽花なの。挿木でつくから是非お庭に迎えてあげて」
「アナベル? アナベル、アナベル」教えてもらった花の名前を忘れまいと小さな声で呟いていると、また笑われてしまった。
そうこうしている内、空の彩雲は色褪せながら少しずつ太陽から遠ざかっていた。
——気散じの散歩なのに今日は何だか忙しい。彩雲の色も、花の名前も覚えておかなくちゃ——
別れを告げ足早に帰宅すると、アナベルをクリスタルの花瓶に投げ入れた。
それから、彩雲の色彩に喩えた輝石の名をメモ帳にかきこんだ。
その日以来、カメラ片手にわたしの彩雲探しが始まった。
早朝の彩雲と違って白昼のそれは、紫外線をカットする透明なサングラスで見なければならなかったが、華やかな強い色彩はまた魅力的だった。
秋空の羊雲やうろこ雲は天に散らばる宝石の様に美しくて愛らしい。
雲の濃さと形によって千変万化の様相を見せる彩雲。
憧れは私の人生の遍歴をたどる様に愛おしいものになってしまった。
——空の神秘に安らぎあれ——
あの時のアナベルは上手く根付かなかった。終の住処の庭に娘が植えたアナベルが、今年もまた白い手毬の様なふわふわの花を咲かせている。
「アナベル……………お庭に迎えてあげて」
優しい呪縛が心を離れない。
今、当時を振り返ると気散じの早朝散歩も、取り憑かれたように彩雲を探し求めたのも、連綿と続く苦悩の日々からの脱出であった様に思う。
苦悩のために健全な精神が根こぎされない様に、本能的に自然を求め、解放と自由と希望を空に求めたのかもしれない。
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