まあ、あくまでも私の話ですけどね。

これは私の話ですよ。
すべて私の中の話です。


私は「思考」することが好きだ。
いつも何か考えている。
それは時に休息であり、活動であり、
リフレッシュであり、負荷であり、
まるで息をするように、食事をするように、
考えている。

思考はいろんな種類がある。
自分自身のことから、自分の周りのこと、人も、
自分に関係することも、無関係なことも、
過去のことも、現在のことも、未来のことも、
現実のことも、もしもの非現実のことも。

そして自分の中でたどり着いた結論に、
自分でスッキリしたり、
スッキリしなかったりする。
脳を回転させることが気持ち良い時は多い。

でも、
時々自分とは無関係のことを
自分に落とし込みすぎてしまったり、
まだ訪れない未来のことに集中しすぎてしまい、
複雑化した思考に支配されてしまう。
簡単に言うと「考えすぎ」だが、
ここまで来ても考えることをやめられない。

そして、
絶えず行われる「思考」が
自分を苦しめるときもある。
でもこの苦しみさえも、
解決させるのは他者のアドバイスではない。
自分の「思考」だけだ。

自分で導き出した答えのみ、
私が信じることができる道だ。



つまり、わたしには思考する「時間」が必要だ。
頭をスッキリさせるためにも、
苦しみから自分を救い出すためにも、
誰からも何からも邪魔されない、
自分だけの時間が必要。

そこでは自分と自分だけが対話する、
大切な時間。

でも、実際のところ、
その「大切な時間」は捻出するのが
現実的に難しかったりする。
物理的に他者と過ごす時間も多く、
義務(仕事など)を果たさなければならず、
生きるために、
食事や睡眠を取らなければならない。
そもそも疲れ果てていると、
思考は精度を落とす。

そして、思考の時間がないとそうやって、
自分自身を見失っていく。

自分自身の考えていることも、
スタンスもわからなってしまうことで、
まるで自分がいなくなったように感じる。
ちなみに「感じている」だけだ。
物理的に常に自分はそこに存在している。

そうやって時に自分がわからなくなって、
自分がいなくなってしまって、
でもまた考えることで、考え抜くことで
なんとか取り戻したりして、
ここまで生きてきた気がする。

そして、
そんな自分の状態や、考え抜いた理論を
言葉でアウトプットするのが得意だ。
いつも言葉でアウトプットすることで、
自身の成果を確認できる。

だから、
お節介だが他の人の状態や
周囲の環境の状態についても、
つい言葉にしてアウトプットしてしまいたくなる。
お節介にならないように気をつける。
そうしていると時に「助けられた」と
言ってくれる人がいる。
ありがたい。

そんな自分のことを他者はどんなふうに評価するかというと、
軒並み「自身で認識している以上」に
評価してくれる。
なぜなら、
うまく言葉でアウトプットできるからだ。

ありがたい。

でも、時たまその言葉のアウトプットは、
本音を超えてしまっていたり、
自分の行動が追いつかないほどの
形になって外に出てしまう。

自身の考えや行動の不足と、
アウトプットされた言葉とのギャップに苦しむ。
私は全然大した人間じゃないのに、
すごいね、えらいね、よくそんなこと思いつくね、
と言われる。

それは誇らしいと同時に、
いつも自分自身の認識とずれ続け、
自分の中でちょっとした歪みになる。

うまく言葉で表現できて、
時に人の心を掴める自分が好きで、
時々嫌いだ。

そうやっていろんな矛盾を抱えながら、
生きていると、
自分にとって必要な「外部刺激」を知る。
その刺激は、私の思考のサイクルの外側に
もっと美しいものがあることを教えてくれる。

それは、
知らない場所やよく知っている場所に行き、
新しい景色を知ったり見つけたり、
新しく食べるものにチャレンジしたりして、
新しい自分の「心地よさ」のポイントを知ること。

美術や音楽、他人の文章や言葉に触れて、
自分では気づくことができない、
自分自身では見つけることのできなかった
自分の「感情」や「想い」を見つけてみたりすること。

他者との会話。
自分自身以外と会話することで、
「予想外なきっかけ」を得て変化していく自分を
楽しんでみること。

こういった外部刺激は、
自身の思考からの解放をしてくれて、
自身の思考の精度を上げてくれる。

特に、
美術と音楽は特別だ。
作者、作品、そしてそれを見る私を通して、
そこにはいつも
特別な体験、感情、歴史が込められていて、
わたしの逃げ場であり、チャージの場所になってくれる。

いろんな矛盾や葛藤を孕みながら、
それでも自分をなによりも心地よくする方法を
知っている。

もう一度言う。
これを維持して生きていくためには、
本当に時間が必要。

時にこれは他者から理解してもらうことか
難しいことだ。

いつも自分を追い込むのは自分で、
たぶん単純に考えすぎで、
やめればいいのにやめられなくて、
とても明るくて快活にみられるけど、
実はそうでもなくて。
要するにめんどくさい人間なんだ。

こうやって、
ずっと一人で自分と向き合っていくんだな、
到底自分のことなんて、
好きになれそうにないけど。

そう思っていた時、
自分となんだか少しだけ、
似ている人を見つけたりする。

いつも自分を苦しめるのも、
救うのも自分自身の「思考」で、
そこに発生する苦しみや矛盾、
一方でそこから生まれる誇りと喜びがあり、
更に重なる矛盾にもがく人間。

そんな人間がこの世にはわたし以外にもいたこと。
そしてその人が、
そんな自分を受け入れ、
一生懸命自分自身を抱きしめようとする
その過程をみせてくれること。

私もこんなふうに、
苦しかろうが痛かろうが、
成長しなければならないだと
思わせてくれた。

とても不思議だ。
これは仲間がいるというだけで、
何も救われる話ではないけれど、
少し似たような性質を持つ人と出会うと、
「一人ではなく」、「自分は確かにここにいる」、
と思うことができる。

誇らしくて楽しい人生だけど、
時に苦しくて痛いこの自分自身と
ずっと付き合っていくために。
思考と時間を使って、
これからも歩いていきたいし、
私と似たようなあの人にも
私とはまた違った道をあの人らしく
歩いて欲しいと思っているよ。

これは私の話。
まぎれもなく私自身の話。
そしてちょっとだけ、
私と似ているあなたの健康と幸せを祈っている、
そんな話。

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