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あいなか

大好きな花屋さんが、9月30日で閉店するらしい。



「オーナーが変わっちゃって、実は急遽店を閉める事になって」
6月ぶりに足を運んだいつもの花屋さん。確かにいつもよりがらんとしたその場所で、そう申し訳無さそうに、忙しく話すいつもの店員さんから手渡されたのは1枚の名刺だった。

「これからはフリーでお花の仕事をするので、よかったらいつでも連絡下さいね」


突然の知らせに、そうなんですか?!とか、え〜!びっくりしましたとか、そういうありきたりな言葉しか言えず、ただ名刺を握ったままお店を後にした。
お花が繋いでくれた大切な御縁は、多分この紙一枚がある限り切れない。店員さんの名前だって、連絡先だって分かる。

だけど、それでも、寂しい。


どこを歩くにも植物に埋め尽くされていた店内、天井に無数にぶら下がったドライフラワーとショーケースで思い思いに咲く生花。
大好きな人の誕生日や門出はこのお店で必ずドライフラワーを買ったこと。
初めてアレンジメントをお願いした時の緊張感。
「折角丁度いい時に来られたんですもん、一緒に食べません?」と誘われて、店先で齧った頂き物のカヌレの味。
毎回花を選ぶ時に花言葉に拘る私に、これの出番ですと手渡された分厚いお花事典。ページを捲りながら、ああでも無い、こうでも無いと一緒に考え続けたこと。

大切な日に幾度と頼った場所だからこそ、小さなことすら忘れない思い出になっている気がする。空間自体が、言葉を交わした時の気持ちすらもう大好きだった。だからこそ、やっぱり寂しい。


別れの10月と、残り少ない9月のあいなかに居るこの心は、なんだか少し苦いばかりだ。







個人的に小さい頃から「3月から春、6月から夏、9月から秋だし、12月から冬!」と何故だかくっきりと信じて生きてきた。(ここらの基準は人によって割と違うから、そこが面白いよね)

もう暦の上では9月。年々四季は曖昧になりつつあるけれど、それでも私の線引きでは秋だ。
暑さ厳しい8月というラインを越えればもう大丈夫、気温と疲労で倒れる事に怯える日々も終わる筈。あとは大好きな季節達が来るだけ。9月を迎える前まではどこかそう信じてる自分が居て、なんてことなく安心して過ごしていた。



そんなん全部、自分の勝手な思い込みだったけれど。
あの時の私に教えてあげたい、本当の大きな線は10月に引かれてるということ、今私は変化のあいなかで揺れながら生きてるということを。



ここ数日、日中は容赦無く陽射しがぎらぎらと刺さる。「きっともうそろそろ心地良くなるはず」と思っていた通勤路の徒歩は茹だる様な暑さで汗がしゅんと滲みるし、肌がじりじりと痛む事で日焼けを知る。
道行く人は殆どまだ半袖だし、昨日、一昨日は川辺で洋服を脱いで涼しくやんやと遊ぶ学生の子らを見た。


皆まだ夏を生きているのに、一体私はいつからもう大丈夫だと安心しきっていたんだろう。




安堵と希望とかそういうの、勝手に信じ抱いたまま9月を迎えた自分が急に小さく思えた。私はあまり強く無いから、変化に弱いから、だからこそいつも心の準備をしておかなくてはいけないのに。何故に、どうして怠ってしまったんだろう。
夏のぎらつく暑さが秋の柔らかさに変わるのも、思い返せば何かが始まり終わるのも、いつだって10月の筈だったのに。いつから私は忘れてしまってたんだろう。どうしようもないくらい、愚かだった様に思える。


9月30日に大好きな花屋さんは無くなってしまうし、9月30日に大好きな人が頑張るラジオの中の学校は、大き過ぎる変化を迎える。



勿論花屋さんも、ラジオの中の学校も、これまでに築いてきた御縁は決して途切れる訳では無い。これだけははっきりと言えるし、それに日々はずっとずっと続いていく。
私の勝手な線引きをとうに超えて、少しずつ秋が訪れる。10月が、来る。

子どもみたいに泣いて「嫌だ、変わらないで」と我儘を言いたいけれど、どうしたって抗うことなんて出来ず9月は少しずつ終わりへと進んでいく事は、もう知っている。私は一応その程度には大人なのだ。季節を、世の線引きを引き留める事なんて出来ない。
だけど、それでも寂しくもどかしい。


9月と10月の、変化のあいなかで揺蕩う今の事を、いつか笑って振り返る日が来るのだろうか。その寂しさを「大丈夫だよ」と、もっと歳を重ねた私が未来で抱き締めてあげられる日は来るのかな。
10月の私はどんな心だろう、私の大好きな人はゆっくり呼吸しながら生きているかな。ほんの少しでもそうであって欲しい。


今の私には何も分からない。
けれどただひとつ我儘を言うのならば。
この残された9月がほんの少しでもゆっくりと、優しく時を刻んでいきます様に。
分かってるよ、無茶なのは分かってるけれど、そんな魔法みたいな事を心から強く願ってる。
神様でも仏様でもなんでもいい、私は特に何も信じてやいないけれど、叶うならばどんな誰にだって今は縋りたいのだ。


「時間よ止まれ!」なんて事はもう言わないから、せめて寂しさを受け入れる心を、変化の後を受け止める為の心を準備する時間をどうか、どうか私に下さい。





あいなかより、ありったけの本心を込めて。

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