蛇行する感情②
疑念
1年前の今日、前田孝太郎は痴漢の疑いをかけられた。あの日も今日みたいな電車の混み具合だった。
いつも時間に余裕を持って家を出る孝太郎はその日に限って寝坊してしまった。急いで身支度を済ませ、最寄り駅へと駆けた。
階段を駆け足で降りたところでちょうど電車が到着した。いつもの孝太郎であれば、駆け込み乗車はせず、次の電車が来るまで待っていた。ただ、その日はその電車に乗らないと遅刻してしまう。閉まりかけのドアに無理やり体を押し込んだ。
孝太郎の前には会社員と思しき女性が乗っていた。身動きの取れない車両で、通勤かばんを両手に持ち、なおかつ目の前の女性に手が触れないようにするのに苦労した。
電車が次の駅に到着し、一瞬、孝太郎は体のバランスを失い、目の前の女性の背中に通勤かばんを持った両手が触れてしまった。不可抗力だった。その後、電車が何度か揺れた。
目的地に電車が到着した。人混みを掻き分けるように電車を降り、階段の方に向かおうとした時、右手が力いっぱい引っ張られた。
手を強引に振りほどき、「なんだよ」と口にしようとして後ろを振り向いた。孝太郎の前には暗い顔をして睨めつける女性がいた。パンツスーツに黒髪のロング。孝太郎の前に乗っていた女性のようだ。
「私のお尻、触ったでしょ」
「はあ?何言ってるんですか?触ってないですよ」
「手が……ずっと」
目の前の女性が何を言っているのかさっぱり理解できなかった。ただ、あの満員電車で不可抗力で手が背中に触れただけだ。それは痴漢と呼ぶのだろうかと孝太郎は納得いかなかった。しかもお尻には一切触れていない。ただ、孝太郎は触れたと認める訳にはいかなかった。認めたら、孝太郎にどんな末路が待っているかわかっているからだ。
目の前の女性は相変わらず孝太郎を睨めつけている。孝太郎と彼女を避けるようにして人々が流れていき、訝しそうに振り返る。
ふざけんなよと孝太郎は独りごちる。ちらっと腕時計を見ると、今すぐ走らなければ、到底会社に間に合いそうにない。
孝太郎が立ち去ろうとした時、
「この人が…この人が…触ったんです」と彼女は指を指す。
気づいた時には孝太郎はサラリーマン風の男性2人に囲まれていた。孝太郎はとにかくやっていないと言うしかなかった。サラリーマン風の男性のうちの1人が駅員を呼んできた。孝太郎は計3人の男性に囲まれてしまい、通り過ぎていく人々の好奇の目に晒された。
大柄な駅員が別の場所でじっくり話をしましょうと持ちかけてきたが、孝太郎はその要求に応えなかった。孝太郎は痴漢被害を訴えかける女性を再び睨めつけた。
周囲の雑音が掻き消され、沈黙が支配する。ひどく長く感じられた。
暫くすると女性は泣き出してしまい、か細い声で「もう……いいです」と言って立ち去った。
一気に腰の力が抜けてしまい、その場にへたりこんだ。駅員とサラリーマン風の男性2人はお互い顔を見合わせ、立ち去った。
相変わらず人々は孝太郎を避けるようにして流れていく。
その後、どうやって出勤したのか孝太郎はまったく思い出せなかった。「寝坊してしまって、すみません」と何度も謝罪した記憶だけが残っている。
その日から孝太郎は満員電車に恐怖を感じるようになった。満員電車に乗る時に手が震えたり、胸が苦しくなってしまう。
あの日から1年が経った。
相変わらず手は震えるし、胸が苦しくなる。あの日のように今日もホームは大勢の人で混雑していた。ただ、あの日と違うのは時間に余裕を持って家を出たということだ。
ホームで電車が到着するのを待っている間、やはり通勤かばんを持つ手は震えていた。
ホームに設置された電光掲示板が電車の到着を告げる。やがて線路の奥の方からぐんぐん光が近づいていき、ホームに滑り込む。
電車に乗っている間、ずっと胸は苦しかった。
何駅か通過後、大勢の乗客が乗ってきて、乗車率がぐんと上がる。
中吊り広告を眺めていた時、ふと孝太郎の目線は下方に引き寄せられる。ちょうど中吊り広告の真下に女子高生がいて、その後方には中年のサラリーマンがぴったりとくっついていた。その中年サラリーマンの手は奇妙な動きをしている。女子高生は吊革をぎゅっと握って下を向いている。
誰が見ても痴漢としか思えなかった。ただ、周囲の人間は誰も気づいていない。
その時、孝太郎は知るかよと思った。薄情だということは彼自身わかっていた。彼女が泣きそうな顔で孝太郎を見ても、目顔で助けてと訴えかけていても、それでも知らねえよと思った。
彼女と1年前の出来事になんの関係もない。彼女は何も悪くない。そんなことは十分にわかっている。でも、孝太郎の中のしこりが動くことを許さなかった。
ふいに彼女の泣きそうな顔と1年前のあの女の泣き顔が重なった。なぜこの1年間気づかなかったのだろう。その事に思い至らなかったのだろう。密集した車内で孝太郎の周りには数人の男性がいたじゃないか。1年前のあの出来事はあの女の狂言ではなかったのではないか。
通勤かばんを持つ手は変わらず震えていた。でも、今までとその理由は違う。
電車はホームへと滑り込み、ドアが開く。乗客は一斉に降りて行く。孝太郎はその人々の流れを横切って、男の元に歩み寄る。
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