蛇行する感情①
プロローグ
午前8時5分。
市営地下鉄の1番出口から一斉に人が吐き出される。人の流れを掻き分けるように階段を下り、改札口を抜けると、ちょうど電車が到着したところだった。ホームにはすでに人が溢れ返っており、車両に人がこれでもかと押し込まれていく。テレビのバラエティ番組で、主婦タレントが激安スーパーで人参の詰め放題をしていた様が想起され、苦笑せざるを得ない。
人々は今日も満員電車に乗り込み、各々の目的地へと運ばれていく。
景色
渡辺千聖は重い足取りで駅までの道を歩いていた。
ちゅんちゅんと鳴く鳥のさえずりも、勢いよく走り抜けていく小学生も、玄関先で夫を見送る主婦も、本来は微笑ましい光景で、幸福というものを表しているのかもしれないけれど、千聖にはそうは思えない。そもそも彼女にはそんな光景はくすんでいて、はっきりと目に見えない。
道路に沿って真っ直ぐ歩いて行くと、市営地下鉄の駅が見えてくる。彼女は思わず下を向く。あの階段を降りてしまえば、電車に乗ってしまえば、あとは自動的に、エレベーターに乗っている感覚で学校に着いてしまう。
地下鉄の駅から一斉に人が吐き出されてくる。その流れを掻き分けるように降りていく。心の中でそっと舌打ちをする。改札を抜け、女性専用車両に乗り込む。
学校までは5駅ある。それが4駅、3駅、2駅とカウントダウンされていく。彼女は毎日それを裁判官が被告人に判決を下す時の様に、短いようで長く感じていた。当然、彼女にはそんな経験はないが、そんな思いに駆られる毎日だった。
きっかけは些細なことだった。
高校に入ってから仲の良い友人が5人できた。そのグループの中心が佐々木舞だった。千聖と佐々木舞は何もかも正反対だった。千聖はどちらかと言えば、大人しい性格で、佐々木舞は何でも思った事をその場で言ってしまう。そんな彼女に憧憬にも似た感情を抱いていた。
「千聖って一言余計だよね」
いつも遅刻ギリギリに登校していたが、その日はたまたま早く家を出た。千聖がこんなにも早く登校してくるとは思わなかったのだろう。教室に入ろうとした時、教室から舞の低いけどよく通る声が聞こえてきた。舞達が目を背けた光景が今でも忘れられない。
千聖はグループの中では控えめに行動していたつもりだった。でも、舞から「一言余計」と陰で噂され、自分で自分が分からなくなった。自分の評価と他人の評価は一致しないと理解していたつもりだったけれど、いざそれが自分の身に降りかかると、頭が混乱した。
自分の言動の一つひとつが見られているような気になって、「これを言ったら嫌われるんじゃないか」という感情が頭の中をぐるぐる巡って、人と接するのが怖くなってしまった。
電車が止まり、乗客が降りて行く。そして、次の駅でまた人が乗ってくる。人間と人間が隙間なく車両に押し込められていく。ふと周りを見渡すと、暗い顔をしている人ばかりだった。ドアに映り込んだ千聖の顔も地下鉄のあの暗がりの中でも分かるほど、表情が死んでいた。
千聖と乗り合わせたこの人達は日々どんなことを思って、どんなことを感じながら生きているのだろう。ただ人を目的地まで運んでいくだけのこの電車が憎いと感じた。苦痛な場所に運んでいくだけの電車が憎い。
気がついた時には千聖は押し合い圧し合いされる中で泣いていた。暖房が効いているはずの車内で震えが止まらなかった。下を向いていても両隣の人が訝しそうに見ているのがわかった。
一駅乗り過ごしてしまった。こんなことは初めてだった。次の駅で電車は止まり、大勢の乗客が降りて行く。その勢いに押される形で、半ば放り出されるように千聖も降りた。中途半端な所で立ち止まったせいで、色んな人に肩をぶつけられた。
泣きながら前を向くと、見知らぬ景色だった。
毎日、家の最寄り駅と学校の最寄り駅を往復するだけの毎日だった。大勢の人が階段を登っていき、はたまた降りてくる。日常の光景であるはずが、今の千聖には新鮮に感じられた。
満員電車で押し合い圧し合いされたせいで肩にかけていたかばんがずり落ちていた。そんなことも気にせず歩いていた自分に心底驚いた。泣きすぎて、顔がぐちゃぐちゃだけれど、そんなことも気にならなかった。
改札口を抜ける。前を向いてもやはり景色は変わらない。目の前を忙しなく人々が流れていく。いつもと変わらない光景。でも何かが違っていた。
千聖はどうやって地上に出ようか、ただそれだけを考えていた。
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