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蛇行する感情④

エピローグ

午前8時5分。

市営地下鉄の1番出口から一斉に人が吐き出される。人の流れを掻き分けるように階段を下り、改札口を抜けると、ちょうど電車が到着したところだった。ホームにはすでに人が溢れ返っており、車両に人がこれでもかと押し込まれていく。テレビのバラエティ番組で、主婦タレントが激安スーパーで人参の詰め放題をしていた様が想起され、苦笑せざるを得ない。

ここまで来るのに本当に時間がかかってしまった。

僕は高校時代、信頼していた人に裏切られた。「信頼」とか「裏切り」という言葉は少々大袈裟かもしれない。

高校時代、親友と言いきれる友人が1人いた。彼も当然、僕のことを親友と思っているはずだ。至極当たり前だと思っていた。

ある日を境に彼から無視をされるようになった。どんな話題を振っても、まるで僕がそこにいないかのように振る舞われる。僕が発した言葉は空気中で行き場を失い、霧散していく。

僕が親友だと思っていた人は親友ではなく、彼からすれば嫌悪の対象だった、らしい。今となってはその嫌悪の理由は分からない。でも、無視という存在そのものの否定は事実であるし、だから嫌悪は真実なのだろう。

親友とは文字通り「親しい友人」と書く。その中には「最も」という意味が含まれると思う。僕が最も親しい友人と思っていた人が実は信頼するには足りないと分かった瞬間、人との接し方が分からなくなってしまった。人と話をするとき、お互いが「信頼」という手土産を持ち寄って、会話をする。「信頼」という手土産の多寡は人間関係の濃密さによって変わる。ただ、「信頼」の手土産がなかったら人間関係なんて成り立たない。僕は手土産を持ち寄ることができなくなってしまった。

高校はなんとか卒業できた。ただ、休み時間はずっと机を眺めていたし、歩くときは下を向いていた。だから僕の高校時代の思い出は茶色の景色だ。

大学に進学する気になんてなれなかった。進学校に通っていた僕が大学に進学せずに引きこもっている。そんな僕を両親は憐れな目で、悲しい目で見た。両親も色々なことを諦めたのだろう。

僕が眺める景色は本棚とベッドしか置いていない殺風景な自室と窓から見える高層マンションと自宅の斜め前にあるコンビニの店内だけだ。

家から出るのは自宅の斜め前にあるコンビニだけだ。

1年が経っていた。

こんな生活を続けるとすっかり生活リズムが崩れてしまう。夕方まで寝ていることも頻繁にあった。

その日も起きたときにはすでに夕方になっていた。ベッドに横たわりながらカーテンをすっと引くと、夕陽が差し込んできた。外は淡い橙色に染まっていた。綺麗だと思った。でも、なぜか感動しなかった。その理由はすぐにわかった。

世界にはもっと綺麗な景色なんていくらでもあるはずだ。こんな薄汚れた室内から見える景色なんかあっけなく霞んでしまうほどの景色がこの世にはあるはずだと。

少しずつでもいいから自分なりに外に出てみようと思った。「信頼」という手土産をほんの少しだけ持ち寄って人と話してみようと思った。これが小説だったら、劇的な出会いがあって、という展開になるんだろうと思うとおかしくて笑ってしまった。現実なんてそんなものだ。自分自身で何かを始めて、何かを変えていくしかない。

玄関を出ると斜め前にはコンビニがある。僕はここから始める。店内に入ると、軽快な音楽が僕を出迎える。お客さんは僕以外には雑誌コーナーで立ち読みをしているおじさんだけのようだ。

カップ麺のコーナーに行くと、いつも買っている焼きそばが置いていなかった。以前の僕なら諦めて帰っていただろう。

「すみません」とカップ麺のコーナーから声を上げる。今日起きて、初めて声を発したので、声が掠れて上手く出なかった。レジにいる店員には聞こえなかったようだ。

レジに向かうと、店員さんはレジ横の商品の品出しをしていた。

「すみません」と声をかけると、「はい、どうされました?」と元気よく店員さんは振り返る。

思わず下を向きそうになるのを堪えて、「いつも買ってる焼きそばがないんですけど」と続けた。

「焼きそば?あっもしかしてこれですか?」

店員さんは「ちょうど今から品出ししようと思ってたんです」と足元の段ボールから焼きそばを1つ取り出した。

「あっそれです」

「では、どうぞ」と店員さんは満面の笑みでカップ焼きそばを僕に差し出した。

人と話したのは本当に久しぶりだった。そして、人の目を見たのも久しぶりだった。その日から、少しずつ人と話をするようになった。そのどれもが些細なことばかりだった。お店で商品が探し出せない場合は店員さんに話しかけた。今まで道を訊かれても無視をしていたけれど、できるだけ丁寧に教えてあげた。大したことのないことばかりで笑われるだろうけれど、僕には大きな一歩だった。

大学に行こうと思った理由は特になかった。行ってみたいとようやく思えるようになった。両親に「大学に行く」と宣言すると、酷く驚いていたものの2人とも安堵の表情を浮かべていた。

1年のブランクを取り戻すのには大変な苦労があった。それでも必死で勉強をした。たとえ報われなかったとしても、もう今までの僕ではないはずだ。

大学センター試験の当日はひどく底冷えする日だった。カイロを何枚貼り付けても、どれだけ着込んでも体の芯から冷え切っていた。

最寄り駅までは5分ほどある。8時前に出れば、充分間に合うだろう。全身を痛めつける寒さに耐えながら、駅までの道を歩く。

やがて見慣れた駅が見えてきた。僕はただひたすらに前方だけを見て歩いていた。

#小説

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