日本、永遠なる実験場

 日本を一つの理想地帯と見做す、西洋民主主義の独善的認識に騙されてはならない。それが日本について、あいまいさ、親和感、同化性などの表現を使って、民主主義発展の救済のヒントを与えている表象を付与するのは、ただの異国情緒への幻想にすぎない。彼らは日本を開国せしめる前も、その情緒に陶酔していたのである。マハンは日本の美徳を称揚すると同時に、最も厳酷な民主主義的使命を日本に強制することに対してやぶさかではなかった。しかり、彼らはただ自らが植民地支配におおいて遭遇した野蛮極まる土人たちとは異質な文明を持つ存在を見て、傲然と仲間に加えてやらんと諾否もなしに接近してきたにすぎない。その結果はどうだったか。我々日本人は、西洋人たちが最も嫌忌する蛮族との戦いを、西洋人たちの為に行わなければならなかった。最初から、彼らは我々を尖兵として利用するつもりでしかなかったのである。
 西洋人たちの日本賛美ほど、我々にとって気味の悪い評言はない。ましてや、彼らが日本に己の理想を見出すなどというのは、言わずもがなである。彼らの丁寧な口吻や、その知性の的確さに愉悦を覚えることを、もう日本人は止めるべきである。
 逆を言えば我々自身にも問題があるのだ。西洋人たちが尊ぶ我々の礼儀正しさや遵法意識の高さ。そして普遍的な道徳への信頼は、仮初にも、偉大な勇気に発しているものではないのである。そこには虚飾があり弱さがあるということを自認しておかねばならない。日本人には主体的道徳意志が欠けているし、悪に対する報復を行うだけの気力も欠けている。だから、日本の和と呼ばれる現象も、弱々しい惰気とは切り離し得ない。つまりそれは危機というものに対する適応性を全く持たない。民主主義と日本が調和し得ている理由があるとしたら、日本(人)が民主主義の危険性について主体的にしようとしない怠惰な民族だからである。この怠惰は全ての国民に共有されているだけならばよかろう。だが怠けている無防備な人間の世界に危険な者どもが入り込んできたらどうなるだろう。その和はあっという間に乱されてしまうだろう。和を乱すことに喜びを見出す民族と人種は存在しうるのである。それらの存在は西洋人のように、我々に対して道徳的関心すら持たず、ただ民主主義を利用して我々を野獣のごとく食い荒らすに違いない。

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