国家主権と近代科学

 国家主権を打ち立てる存在を規定することは近代社会科学にとっては禁忌である。なぜならば、近代社会科学とは、国家主権が存在することが前提となっており、それ以前の事は神話として隅に置かれるからである。しかし、科学的思考があらゆる問題について把捉を求めるのであるのならば、この国家主権を打ち立てる存在についての普遍的な認識の獲得の努力が怠られることがまかり通ってはならないだろう。国家主権が、社会科学への理論へ提供される要素(概念)となることができたのは、その要素が現実における様々な国家の個性を廃去することができる通有性を持っていたからにほかならない。それならば、国家主権を打ち立てる様々な存在もまた、その通有性を持っているかもしれないという想像は、決して不当なものではなないだろう。
 我々はその国家主権を打ち立てる者を民族と呼ぼう。言い換えれば、これは国家主権をめぐる闘争は全て、民族の抗争であるということである。この闘争に勝利したものこそが国家主権を打ち立てる資格を得るのである。基礎的な国家主権論における主権者は、単独者であったり複数の人間による集団であったりするが、国家主権が打ち立てられるその時には、その主権の成立を宣言するその者が単独者であろうが複数であろうが、彼らは民族という存在を国家へと昇華せしめている。別言すれば、この時、国家主権の個性は、主権を打ち立てる者自体の性質ではなく、彼の民族性によって規定されることになるのである。主権者の宣言は、彼が権力の保証であると同時に、彼が属する民族が国家へと昇華することの宣言なのである。

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