中華論考Ⅲ

 中国は、永遠の前近代国家である。なぜなら、中国は常に純粋な自然法が国家原理として運動しているのであり、この永遠的な闘争状態を制御する信約をそれは永遠に知ることがないからである。中国は常に「獲得」の権力によって、その歴史を紡いできたのであって、国民と支配者の約束の下に、主権を創造したことは未だかつてないのである。中国における実定法は、自然法との衝突を避けることができず、それが常に不安定な政治的・社会的局面を作り出すことになる。つまり、法的原理を超越する自然権の発動が、中国においては繰り返されるのであり、それは国内に対しても国外に対しても、同じ性質をもった現象として生じることになる。我々は中国の権力者が、自国民にたいしても、そして、外国に対しても、暴力的で強圧的な姿勢を見せるのをしばしば目睹するが、それは単に中国人の人性に由来する者なのではなく、中国が永続的に自然的な闘争状態に置かれていることから来る態度なのである。

近代国家はこのような闘争状態から自己を解放しようするための信約をもって、自国民および、他国と関係しようとする性質を持っている。国際社会における自然法が、実定法の形式を採用するためには、当然近代国家の原理に基づいていなければならない。近代国家と近代国家だけが、国際社会において信約を締結する資格を持っている。ところが、刻社会には、中国の如き国家が無数に存在している。そのような国家派、抑々自然権を際限なく行使することにやぶさかではなく、常に闘争状態における所動でもって、他国との関係を決定していくのである。この相違は、ホッブスの二分法を使って、「獲得」の権力と「設立」の権力の相違そのものであると断じて構わないだろう。これは疑いなく、国家主権の性質の相違であり、国家主権の関係間の特徴でもある。信約の原理を持つ国家とそうでない国家の、その生存の為の意志の形態は、全く別のものであって、国際社会の安定は、この両者の衝突によって生じているかのようである。現代世界においては、特にその衝突を明瞭に捉えることができる。

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