日本国憲法
日本国憲法はあらゆる自由、すなわち他者の直接的な損害を齎さないような自由を容認する国憲である。この極大化された自由において、我々の国民はさまざまな意見や主張を開示することができ、またそれらを他者に対する無害性に基づいて実践することができる。それは個人的に発動されるものかもしれなし、また集団的にそうされるものかもしれない。あらゆる個人、集団はその自由の支配の下に存在しているのであって、さらば、個人、集団の社会的属性や観念の変動に基づいて、この自由の世界の実際的状況は変化することになる。集団に関しては、当然、その根本的な思想や主義が易々と変化するということはないだろう。なぜなら、あらゆる組織は、その発足時に創出された根本的規則の残存によって、初めて組織として生きていることになるからであり、それによって集団としての実践が可能になる。これに比べて、個人の観念は日々、変化の脅威にさらされていると言えるだろう。近代文明は、個人に多種、許多の情報を齎すものであり、その伝達の速度は
高次のものである。このような状況にさらされている以上個人は、その影響から逃れることは出来ないし、そうである以上、個人はその現有の観念と、新しく接触する情報との取捨選択の道に入るかもしれないし、その選択を実行しなければならないかもしれないのである。しかしながら、個人が彼によって保有されている存在でありながらも、集団に帰属する存在である。どのような人間も集団を離れて自存できる人間は存在しない。人間は常に社会と関係しなければならない存在である。個人は個人の絶対的な観念を有すると同時に、その生存の為に集団の主義、思想を、たとえそれに対する嫌悪を持ち、表明しているとしても、受容しなければならない時がある。日本国憲法下の世界においても、この強制力は実在するものであり、各人は、その自由を行使する権利を与えられていると同時に、集団的な統制力への適合を強いられる、つまりその自由の極大的な実践を妨げられるという境涯に立たされざるを得なくなるだろう(極端な例をあげると、日本国憲法の理念、そして、その成立の根拠の正当性に疑問を抱く国民がそうであろう)。
自由の世界は言いかえれば、それ自体でその自由を制約する原理を孕んでいる。これは賢明な政治哲学者であれば、容易に看破できる政治の原理である。ここで、重要になるのは、その自由を阻害する原理を規定する作業が可能かどうかということである。日本国憲法が与える自由の世界において、個人のその自由を妨げる原理とは一体何であろうか?それは当然集団という外装を纏っているに違いないだろう。では、この集団の原理、すなわち、あらゆる集団において最も牢固に遍在的に通有されている原理とその内実とは何であろうか?まず、我々はここで、一つの可能性を推考する。それはその集団の原理とその内実が、日本国憲法の理念から下降しているものになるだろうか、という問題意識である。
日本国憲法の理念とは何だろうか?我々日本国民は、それをおそらく知っているだろう。つまり、あの三大原理を我々は想起する。国民主権、基本的人権、平和主義である。日本国憲法の支配下における自由の世界を制約する集団原理は、原理的にそれらの理念と無縁でいられるだろうか、というのがここで重要となる問題意識である。
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