デモクラシーの精神所産

 デモクラシーの時代においては精神的な所産の価値基準が決定的に分離する。その分離は二つの方向に分かれる。一つは研究という分業とそれ以外の分業という世界である。それ以外というのは、一国の経済体における研究以外の労働と事業に属する人間たちである。言い換えれば、精神(知性)の分離を決めるものは、デモクラシーの原理である分業と経済の原則になるのである。
 貴族時代における知性は、貴族と庶民という人間的区別によって分裂していた。そして、何より、知性は貴族専有のものであった。それゆえ、知性の社会的価値の護持とその持続は、貴族階級の生存に全て依存していた。しかし、デモクラシーの時代においては、知性的対立は、知性の有無の対立ではなく、知性の方向性の対立となる。研究者(という労働者)の知性と、それ以外の労働者の知性が対立する。しかし、研究者の知性の方向性の対象は、貴族的方向性と合致するのである。なぜなら、研究者と貴族の実質的活動は、講義の有無の違い位で他はほとんど変わらないからである。それゆえ、研究者の知性の方向性は、貴族的思索と抽象に向かうのであり、それは人間本来の知性の傾向の表現でもある。だが、注意しなければならないのは、デモクラシー時代における研究者以外の労働者の知性の方向性である。これを一見知性ではないと判断する者達が同時代に存在するが(それは往々にして研究者である)、しかし、発展したデモクラシー時代の労働者は、全て適正な教育を受け、字の読み書きもでき、計算もでき、外国語すら適度に理解することができる。にもかかわらず、彼らの知性の方向性は、実用主義的なもの以外に向かうことはない。なぜか?話は単純である。それは彼らの従事する職業において、それが必要とされているからである。しかし、知性の深化は、必ずしも職業において限定されるわけではないと反駁されるかもしれない。休日にはシェイクスピアや三島由紀夫を読むといった人間だっているではないか、と。しかし、古典を読み、研究するという傾向は、デモクラシー時代にあってはやはり民衆(的労働者)には、魅力的なもの映ずることはない。というのも、トクヴィルが言うように、彼らは常に忙しいのであって、忙しい時間に、古典の深い精髄を味得することは、休日と余暇の効用にはならないのである。それゆえ、研究者(的労働者)とて、研究の仕事から離れれば、民衆(的労働者)とおなじような休日の快楽に耽ることになるのである。
 すなわち、デモクラシー時代にあっては、知性は人間的なものとしてではなく、分業における生産品としてのみ価値を持つことになる。あるいは、こうも言える。もしそれが社会的価値を持つとしたとしても、デモクラシーの国民の日々の労働と生活に対して何らの根本的影響や変革を齎さないものとしてのみ受容される限定のもとで、それは生きているということである。
 デモクラシー時代にあって、今や古典を読むことは、生産か、あるいは余程特殊な快楽に結実しなければ、雑誌や漫画の書見以下の価値をもつものでしかなくなるのである。

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