経済有意

 経済主義および経済勢力に強力に干渉される現在の日本の政府権力は、当然のごとく経済政策を重視している。この政府の態度を要求することができるのは、企業家(資本家)と労働者(失業者)である。前者は市場経済の発展という理念をもって政府に対峙し、後者は賃金の値上げ、生活の向上を政府に訴えるだろう。しかし、前者と後者では政府権力に対する影響力の行使の形と度合いが全く違っている。前者はその豊饒な資金と資本でもって、政府権力に対する現実的な関わりを持つことができる。合法・非合法にかかわらず献金・賄賂は一つの有意な実践である。しかも、その資金こそが、最終的には国家の富を規定する要素であることを政府権力が十分に理解している以上、このような経済勢力の要求を受け入れることは当然の態度なのである。対して、労働者(失業者)の政府権力に対する現実的な関わりの形は限られたものとなっている。すなわち、彼らが有しているのは政治的な権利のみである(選挙権、被選挙権、労働に関する諸権利・・・)。しかしながら、ここには何も不当性はない。なぜなら、全ての階級の人間は国民であり、国民である以上、彼らが政治に対して有する権利が政治的なものに留まるのは、抑々の原則なのである。もちろん、労働者(失業者)が国法を逸脱する政治的行為を発動することもあるだろうが、しかし、其れはあくまで、政治的原理に根差しているわけであるから、そのような実質的な干渉に対して政府権力は適切な暴力を行使して制御すればよいだけの話である。一方、企業家(資本家)の干渉は、これとは全く違った様相を呈する。彼らは政府権力の護持条件である、国家資本の構成者である。それゆえ、政府権力が彼らの献金・賄賂に対して罰を与えることは、政府権力が実行する消費や分配の枯渇を齎すことになりかねない。ここで、次のように反駁されるかもしれない。すなわち、税収という公正な政府権力の収入が存在するのに、献金・賄賂が行われるのは、労働者(失業者)が惹起する反体制運動と同原理に属することではないか。しかしながら、そうではない。なぜなら、国家の資本とは、法原理の発動によって得られる収入によって構成されるのではなく、それを捨象したところで集中する貨幣の蓄積によって構成されているからである。労働者(失業者)が法原理から逸脱する時、彼らは政治的存在としての変転を行うのだが、企業家(資本家)の逸脱は、彼の政治的立ち位置を変えることはないのである。我々はここに、経済主義というイデオロギーの実践的形態を見出すことができる。要言すれば、政府権力が国家を維持しようとする意志と、企業家をはじめとする市場勢力の更なる利益拡大の企図との結合の現出なのである。
 このような状態においては、政府権力の経済政策における最低限の目的は、短期的な期間に準拠して設定されざるを得なくなるだろう。国内総生産、歳入、外需等から生み出される利益を、低減せしめることを防止すること、これを政府権力は国家体制維持の為の必要な条件と看取するだろう。つまり、現今の経済レベルを維持することこそが、政府権力の経済政策の要になり、またその経済政策が、現今の日本のような国家においては、肝要な国家戦略となってしまうのである。しかし、この政府権力の経済主義は、抑々国家戦略が長期的な展望を基にして展開されなければならないということの理解を捨象している。  市場経済は、短期的利益を追求する人間の衝動を基にした社会制度である。そして、企業家(資本家)はこの短期的利益の確保の為に資金を動かす。そして、政府権力に対しても、その富の力によって、この利益を増幅させるための政策を提言し、時に強要する。彼らにとって、国家とは市場経済を保護するための装置でしかなく、経済性意外の一切の性質は国家にとって不要なものだという認識を、政見として有している。民族、文化、宗教、言語等の非経済的要素に対して彼らは社会的な価値を与えないし、もし、それが自らの経済的利益の障害となるようであるならば、政府権力を懐柔してその破壊に向かうだろう。

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