マキアベリを救え

 マキアベリの政治哲学は、技術論であるが故に、種々の応用可能性を持っている。『君主論』を、サラリーマンの会社での生存戦略に転用する解説者などは容易に想像できるであろう。あるいは『戦略論』を企業の組織論に置換するというようなことを試みる研究者も存在するかもしれない。
 これは言い換えれば、政治現象というものが、最も極端な人間現象でもあるということを意味している。政治的なものほど人間的なものはないのである。それゆえ、政治に関する技術論には、決まった解答などはないのであって、マキアベリの政治哲学における、個個の技術論的考察とその主張をうのみするわけにはいかない。マキアベリ自身、自身の技術論の部分が現実において有効ではない現実を目睹することもあったに相違ない。
 マキアベリの政治哲学における最大の核心は、政治的技術論が無辺際の内容を持っていることを示した点である。言い換えれば、政治的な結果を生み出すことが政治的世界においてはすべてであるという主張こそが、マキアベリの唯一の哲学である。これは、市場主義の現代においては十分に納得できる思想である。むしろ、現代日本の不完全な主権状態における為政者の営為よりも、市井に生きる人間の方が、マキアベリの技術論的な志向性についての共感を持ちえているだろう。市場主義の世界において生きることは、一つの政治的な経験を培うことになるかもしれない。
 だが、根本的に異なっているのは、市場主義の技術論においては、暴力が欠如しているということである。暴力との絶えざる接触と結合の中でこそ、真の政治的経験は育まれるのであり、また、愛国心を培養することができるのである。市場主義における冷淡な生存戦略は、いわば貨幣といういつか必ず途切れる紐帯の為だけにあるのである。

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