主体と客体
主体と客体の精神の結合は、その過程においてこそ意味を持っている。主体の精神がそれ自体で客体の精神をなす時、主格は合一しているのではなく、常にどちらかが認識の覇権を手にしているということを意味している。すなわち、主体と客体が認識において合一することは、 認識の限外における現象ないし心象でしかない。そして、この限外における合一の可能性こそが、実はその合一の過程そのものなのである。ところで、このような認識の有限性によって規定された主体と客体の合一は、認識自体を捨象することによってしかその限外の領域を布置することはできない。では、その領域の性質は何になるだろうか?
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