日本人と肉体


 日本人には肉体そのものが欠如しているという謬説がある。これは、侍階級の精神世界にのみ日本人の存在感を重ねているか、あるいは戦後のアメリカの肉体主義に吃驚を喫するか、あるいはアメリカ人の肉体を実見して自らの民族の肉体的特性を虚弱さとしてしか認識できなかった者の考えである。日本人は歴史的にしっかりと肉体を築きあげてきた民族である。我々の肉体には農耕によって培われた肉体的特性が存在し、継受されている。短くまがった脚や平べったい足裏は、肉体の強靭さを養うための素地になりうるし、背低さは敏捷性に直結するだろう。それらは自然な労働と生活によって涵養されたものであり、日本人の肉体の特長として長く遺伝的に持続してきたのである。しかるに、戦後の日本人の肉体の欠如の問題が指摘されるのは、日本人が自然労働を放擲し、近代資本主義特有の労働に専従するようになったからだろうか?確かに、それは一理あるだろう。現代の日本人は一部の専業者を除けば、肉体的に軟弱であっても市民生活を手に入れることにはほぼ支障がなく、むしろ肉体的な力を犠牲にしなければ得られない能力こそが必要とされているようである。しかし、日本人の肉体的特性がこのような風潮によって様々な面において根本的に変化するには、また短い年月しか経過していない。我々の肉体の長所はまた有効であり、少しの鍛錬を持続すれば、その長所は容易に取り戻されるに違いない。

 アメリカ的な肉体主義の影響は、日本人に対する肉体一般の観念に対する劣等感を意味するのではなく、日本人が自然労働によって奪われた肉体特長を補うためには、もはやアメリカ的な肉体主義、すなわち、労動とは別な形で、個人が自らの肉体を意志して、鍛錬を個人的に実行するという肉体の生活形態を模倣するしかなくなったことへの、日本人の失望感と一体になっているようである。それはつまり近代資本主義労働によって自らの自然的な労働が駆逐され、日本人が肉体と自然を切り離された世界にその存在を投げ込まなければならなくなったことへの絶望ともいえるかもしれない。そして、それは戦後に特有の感情ではなく、明治以降の近代化の中での感情なのかもしれない。近代資本主義の変遷を体験する中で、日本人がその労働と筋肉の関係性の漸次的に喪失してきた結果が、現在の軟弱な痩身の日本人の像の現出に連結しているといっていい(しかしながら、戦時においてはこういった傾向は抑制されただろう。なぜなら、戦争は最も激烈な肉体の世界出であり、夫々の民族・人種の肉体的長所が純粋な形で活かされる時代だからである)。

 さらば、アメリカ人もまたその肉体主義の中に、肉体観念の喪失を有していることになるだろう。彼らの肉体もまた、自然的労働を剥奪されているのであり、というのも、彼らの社会こそが自然的労働を放擲した最初の社会なのであり、その歴史の劈頭において見られた、ピューリタンの達の自給自足の筋肉労働とそれによって得られた肉体観念が、遠い昔に喪失されたことへの苦しみの表現として、アメリカ人の現代の肉体主義は存在しているのかもしれないのである。我々がアメリカ人の肉体に憧憬するのは、アメリカ人に対する劣等感からくるものではなく、彼らが我々と同様に、自然的労働を剥奪され、そして肉体と肉体観念を喪失した被害者としての共感故ではないだろうか。

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