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泣き言

とあるオーディションに応募したけどあたりもかすりもしなかった。SNSにて選考されたバンドが公開になって、いざフライヤーになっているのを見るとちょっと来るものがある。
対バンした友達が爆発的に応援されている姿をSNSにて遠巻きに確認する。たったワンタップも躊躇する。正直みじめだ。
SNSで「良い」と下馬評のアルバムをすぐに聴けない。悔しくなって純粋に楽しめない自分を直視するのが怖い。なんとも情けない。

SNSをあくまで「自身をコンテンツ化するためのツール」と割り切れない自分(閲覧してしまって喰らう自分)は、よく言えば人間味溢れているが、率直に言えば、この人間味はアクだ。ダシではない。

あと1ヶ月少しで27歳が終わる。賞味期限を感じる。
多少は、というかかなり、時代のものになりたかったんだと思うし、それはいろんな場面において、自分だけだったのかもしれない。だったら自分で頑張り方を考えるべきだったし口にするべきだった。もしかしたらこの街で今まで通りやっていたら、自分ならなにかあるかもしれない、と思っていた節がある。

いろいろな見通しが甘かった。
無駄に消費した時間があったと感じる。
自己研鑽を早い時期からやっていたら結果も違ったと思う。

自分の至らなさを痛感するのは、練習をしている時だ。出来ないことが多すぎるのに時間が足りなさすぎる。それをもっと前に気付いていたら、と思う。

他の人がインテンポで弾ける曲すら弾けない。(弾けてる、出来ている人を見る行為は、生存者バイアスに似た何かを感じる時もある。
生還した零戦からは、確実なサンプルは取れない。還ってこれなかった零戦が撃たれた箇所が語るものもある)

落ち込むことばかりが続いて、朝起きるとすぐ魔法が解けている時がある。全能感は誰かにかけられた魔法だった。

魔法から醒めた自分がどこまで出来るか。
地肩が試されると思う。

曲ができない。
頭でっかちな時は曲が生まれない。ひたすら手を動かしている時に曲はできる。

それでも働かなければいけない。
楽器に触れる時間は限られている。
今だって触れるなら触りたい。労働以外にも触れない事情はある。生きていく中で音楽以外に無くしたくないものも増えた。

ありがたいことに、自分はアウトプットをさせてもらえる仕事が出来ている。アートワークもそう、グラフィックもそう。最近はコラム執筆もさせてもらえている。
唯一、音楽は仕事じゃない。本命には振り向いてもらえない。理由はなんとなく分かっている。エゴがあるからだ。「誰とも話し合わず」自分が良いと思ったものをアウトプットしているのは、今アウトプットしているもののなかで音楽だけだ。

おそらく「良い」と思ってもらうには、太りきった自我だけじゃ意味がないとも思う。

個性とは他人と異なることではなく、まずどれだけ周囲の人と価値観を共有できるか、というところに分母がある

宮崎駿

ハヤオ先生もそう仰られてらっしゃる。
他人と価値観を共有する事が必要。
おそらく前回の記事で書いた阿久悠の金言と本質は変わらない。ハヤオ先生のいう「価値観の共有」は阿久悠のいう「時代と会話する」こととほぼ変わりないと考える。

音楽以外の様々なアウトプットは、色んな人と話し合って作っていく。その作業はとても好きだし、だからこそ「作ってくれてありがとう」と言ってもらえるもんだと思ってる。

音楽もそうあるべきなんだろうか?
音楽における、楽曲における「共有」の活動はなんだろうか?

わざわざ会議室を予約したり、webミーティングのソフトをダウンロードしたりURLを発行したりする事じゃないのは確かだ。

今のところは音楽以外に大切にしたいもの、無くしたくないものを全力で無くさないことが、それにあたるんじゃないかと踏んではいる。

もちろんいつ曲ができてもいいように手を動かし続ける(練習や視聴)は続けるべきだとも思う。

まだまだ諦めたくはありません。
頑張らなきゃなあ。

モチベーションに頼って動くのはナシで、全ての運動は振り子に帰結することを信じてやるしかないっす。シゲキックス食べながら頑張ります。

https://youtu.be/Bvzw1X9a2GY?si=47cbQZ3OYHbYjzJF

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