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「臨書」理想論 見る・調べる・感じる

書を続けていくうえで、避けて通れないもの
それは「臨書」です。

書を続けていく上で、先人たちの名品を臨書することは、自分の書の感性を磨くことにもつながります。
今回はそんな臨書について語っていきたいと思います。


1,臨書の種類

臨書と一言で言っても、その種類はさまざまです。一般的に言われているのは3つの臨書方法です。大まかに説明すると、

1【形臨】…形をそっくり真似て書く
2【意臨】…運筆のリズムを想像し書く、また作者や時代背景を考える
3【背臨】…法帖を覚え、手本を見ないで書く
という感じでしょうか。

書をやっている人が一番多く取り組んでいるのは、【形臨】だと思います。読んで字の如く、法帖に書かれた文字の形をそっくりに書こうとするものです。書を造形芸術と捉え、デッサンのように臨書をしていきます。線の中心を感じるために骨字を書いてみたり、字の造形や線の太い細いを感じるために籠字を書いてみたり、とその法帖全体に通底する文字の造形感覚を身につけるには非常に有効な臨書方法といえます。

2,形を追うことの限界

初学者にとって、書はお手本があることが当たり前で、それを真似ていくこと、先生がいてその運筆を真似ていくことが最初の課題になるでしょう。ですので、先生が書いてくれたお手本を一生懸命見て、形を真似していくことは悪いことではありません。(まずは、それが上達の近道ですので)しかし、長い間その状態でいると、「お手本がないと書けない」という状態になってしまうのも事実です。特に、【先生のお手本がないと書けない】という状況になってしまうと深刻です。本来であれば、自分のついている師匠の字だけでなく、先人たちの法帖を見て自分で学ぶ、さらに自分の表現を探していくことが書道の芸術性を担保しているはずです。先生のお手本しか書けないというのは、芸術書道としては大問題なわけです。これは【形臨】重要視の弊害といえるのではないでしょうか。

しかし、なぜ、ここまで形に拘らなければならないのでしょうか。似せることがそれほど重要なのでしょうか。もし似せることが至上命題なのであれば人に書かせる必要はないはずです。一番問題なのは「形を追うことで何を得ることができるのか」ということを議論が現代にいおいて書家同士でなされていないことです。形を原本に近づけることが最大の目的になってはいけないのです。近づけた先に何があるのか、そこを書家が示さなければならない。
人間ですから形だけを追うことには必ず限界がきます。形を追うだけだったら、今では人間よりも機械の方が得意でしょう。形臨をする意味を問いつづけることは、書の未来を考える上で重要な作業です。

3,書の学び方を考える

「書作」と「書学」という言葉があります。書作というのは、作品制作に関わる言葉です。書学というのは、書道史や理論に関わる言葉で、書道の学びはこの両輪にとって支えられています。しかし、多くの人が「書は書くもの」という認識を持っています。もちろんそれも間違いではありませんが、書の学びを深めていくためには、「書学」の部分も深めていかなければいけません。なぜなら、その造形観や文人(書家)は時代の影響を受け、その時代を生きていたからこそ、その芸術が生まれた言えるからです。作品は作者と一緒に存在し、さらには時代背景と一緒に存在しています。その意味で、上に挙げた3つの臨書方法は、どれか1つをやるというわけではなく、すべてを網羅的にやることが重要だということが分かります。

4,臨書から何を学ぶのか〜これからの臨書のあり方を考える〜

「臨書」は「書に臨む」と書きます。大事なのはその「臨み方」であり、そこにはさまざまな臨み方が存在します。しかし「臨書」を狭い範囲でしか捉えず、形のみを追うことになってしまうのは非常にもったいないことです。また、臨書を自分の創作に活かすための活動と捉えている人も多いようです。臨書をインプットととし、創作をアウトプットと考える人もいます。書をやる際にはさまざまな考え方が存在して構いませんし、臨書を自分の中でどのように位置づけるのかは自由でいいと思います。問題なのは、それらの活動に優劣をつけることでしょう。3つの臨書方法が存在するのは、書の歴史において、その臨書方法が必要だったからと考えるのが普通です。形臨が無かったら書の造形的な発展は無かったですし、法帖だけでは見えない部分を見ようとする意臨が無かったら、書の深みは生まれなかったでしょう。

先人たちも臨書をしていました。私たちとは比べ物にならないほど筆を使って書いていました。先人たちはどんな臨書をしていたのでしょうか。
近代の書家たちの臨書は意外にも多く残っています。ぜひ調べてみてください。そこでいつも思うのは「すごく似ているというわけではない」ということです。書の偉人たちは、臨書の姿勢をどのように考えていたのかを、臨書作品から感じることもまた、目習いとしては重要かもしれません。

今回は、臨書について書いてみました。現在の持論は、「臨書もアウトプットであり、解釈を含むという点でクリエイティブな行為である」というものです。臨書に向かう時に私たちは、法帖を見て、調べ、感じ、そして筆を動かします。そこには、人それぞれの感覚と観点が存在し、それぞれの解釈で筆が運ばれます。
その意味で臨書は、クリエイティブであり、探究する行為そのものになるわけです。書学と書作を行き来しながら、自分の解釈を広げさせてくれる臨書。日々思考しながら取り組みたいものです。

書の世界は複雑で、さまざまな分野につながっています。
‐書の奥深さ、すべての人に‐
&書【andsyo】でした。



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