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絵になる美しい街並みを創造する為の粉本/高梁(たかはし)/岡山県高梁市/町割りの祖が小堀遠州の街並み


 岡山県の中西部を流れる高梁川の中流域に位置する高梁は明治6年(1873)までは備中国松山と呼ばれた城下町。
 地形は高梁川と山々に囲まれた細長い盆地だ。この城下町の骨格は地形を活かして、東側の高梁川を天然の外堀に、それに流れ込む小高下川、紺屋町川、下谷川を内堀、外堀として機能させ、北側の臥牛山上に松山城天守を、その山麓に藩主の居館・政庁である御根小屋を設け、高梁川に沿うように南に向かって商人の町である本町・下町・新町を、更に東の山手に武家町と寺町を配置、その面影は今でも旧武家屋敷の並ぶ石火矢町や伝統的な町家が建ち並ぶ本町で見られる。
 この町割りの祖は、関ケ原の戦いの後、慶長5 年(1600)に小堀政次が備中国奉行として、嗣子の正一(小堀遠州)と共に赴任し、陣屋町としたのが始まり。特に遠州は茶道、造園、建築に優れた才能を示した人物で、慶長9年(1604)に父の後を継ぎ、松山城の普請や頼久寺庭園の作庭等を行った事で知られる。この頼久寺庭園は遠州の「綺麗さび」を表現した「鶴亀の庭」と呼ばれる秀作で、拝観するとはるかに望む愛宕山を借景してデザインしているのが読みとれる。
 同様な目で、町割により創出された高梁の街並を観察すると、遠州の意図は知る由もないが、街路の先に御根小屋や周囲の山々がアイストップや借景としてデザインされており、これらが高梁独特の個性溢れる優しい街並景観を形作っているのが分かる。この観点を是とすれば街路の先に建つ御根小屋跡等の近代建築を伝統的建築に倣って再生するのも一考だ。

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