ニコライ堂、キリスト教、ユダヤ教

今日は、3ヶ月毎の歯科健診日。

お茶の水でニコライ堂に行って見ました。
生まれてからずっと近くにありましたが、意識して見たことはなく、歴史を調べると奥が深いです。

人類の歴史、そして戦争の歴史。
キリスト教と一言で言っても本当に奥が深いです。

ユダヤ教は選民意識が強いと言われてます。
その奢りが危険とイエスは咎めた訳で、そのキリスト教には、押し付け意識が強いように思います。イエスを信じる者は救われる。私が父の命を受けている。だから私に従えば救われる。さもないと地獄へ落ちるぞ!新約聖書に従え!その新約聖書は、果たしてイエスの教えなのか?
そして、それを悪用した輩も現れています。

ローマカトリック。

このロシア正教会の支援を受けたニコライ堂は、今は日本正教会の所属です。

神学も興味あるな!

解説、ご参考に
ニコライ堂 お茶の水 
正教を伝道するためにロシアから日本に渡った亜使徒聖ニコライは、最初の伝道地・函館を1872年1月に発ち上京。同年9月、神田駿河台にあった定火消の役宅跡地を購入のうえ、伝道の新たな拠点として「正教本会」を設置しました。

聖堂の建設は、この正教本会敷地内に、ニコライ師指導のもとで進められた。1884年に着工し、1891年に竣工。同年3月8日、主イイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の復活を記憶する「復活大聖堂」として成聖された。

1912年にニコライ大主教が永眠。1917年のロシア革命によって成立した共産主義政権下では、母教会であるロシア正教会が弾圧の対象となった。こうして、日本の正教会は生まれたばかりの状態のまま母教会からの支援を失ってしまいます。さらに、1923年には関東大震災が発生します。木造の鐘楼部分が倒壊したことで上部ドームは崩落。全体が火災に見舞われて、土台と煉瓦壁のみが残されました。東京各地にあった本会以外の諸教会もまた、四谷教会などを除きその多くが被災しています。

大聖堂の復興工事は1927年9月25日に起工し、1929年11月30日に終了しました。同年12月15日、復興された大聖堂の成聖式が行われる。復興設計者は岡田信一郎氏。聖鐘は大震災以降、松山から聖堂と共に移されたものを使っていましたが、以前に比べて小さいものでありました。そこで、これを函館教会に送る代わりに現地から大鐘を取り寄せ、大聖堂の親鐘とする。この親鐘は、かつて箱根・塔ノ沢に存在した正教会の避暑館に設置されていたものでもあります。親鐘のほか、ポーランドで鋳造された五個の鐘がともに配されました。2018年9月には、ロシア製の鐘が大幅に増え、新たな「ニコライの鐘」となって今日に至っています。

かねてより、日露戦争、ロシア革命などで悪化する日露・日ソ関係の影響や、それに伴う偏見を日本の正教会は蒙ってきた歴史があります。また、第二次世界大戦の最中には、国内の各宗教団体への政府の統制が厳しくなった結果、日本の正教会も例外なく様々な圧力を受けました。大戦中にセルギイ府主教は退任を余儀なくされ、特別高等警察により40日間拘留。釈放されたものの、ほどなくして1945年8月10日永眠しました。

大戦後、日本の正教会はアメリカから主教を迎え、信仰生活を継続。大聖堂で活動中の本会をはじめとする諸正教会は、戦後すぐの混乱から立ち直り、日曜学校の復興といった教会活動は活発化しました。1956年には、新たに川崎正教会(後に多摩教会となり、東京復活大聖堂に統合)の設立という宣教の実りがもたらされています。1962年3月、大聖堂が国の重要文化財に指定されました。

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