月に降る雨
「月には雨が降るのだろうか…」
彼は夜空を見上げながら私に話しかけるともなく呟いた。
「雨…。いえ降らないです。」
怪訝に思いながらも判然と答える。
「そうか…。いや今夜の月が随分と滲んで見えるものでね…」
休憩地に選んだ森は虫や獣も遠慮がちに鳴いている。月は皓々と無くしたものを一緒に探してくれてるかのように照らしている。
長旅の疲れなのか…。昼間の日照りのせいなのか…。いや、この時期彼はいつも放心する時間が多くなる。
人間は心に治癒できない程の傷を負った時、傷を負った事実すら消し去ってしまうとか。確か…忘却…。神はどうだろう?
彼は覚えているのだろうか?
産まれたての私を優しく抱きかかえた時の事を…。
暖かなその手で私の頭を撫でた時の事を…。
愛する妻の生への扉を自らの手で閉めた時の事を…。
「さぁ、そろそろ行こうか。」彼は力なく立ち上がる。彼と私の終わりのない旅がまた始まる。
夜空を見上げると確かに今夜の月は滲んでみえた。
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