見出し画像

★3 神仙説と道教

 古代中国、黄河文明と言われる文化的な生活を人々が手に入れた頃。しかし、人々は未だ東西南北の彼方に何があるのかを知らず、いつしかそこには不死の存在が住む不思議な世界があるのだと考えられるようになっていた。

 東の蓬莱、西の崑崙等、耳にしたことがある方もいるだろう。『史記』巻二八「封禅書(ほうぜんしょ)」には東の世界について書かれてあり、その地にかつて辿り着いた者の話として「渤海の中に蓬莱、方丈、瀛州という三神山があって、さまざまな僊人(せんにん:魂が肉体から離れる術を得た人)や不死の妙薬があり、鳥や獣は全て白色、宮殿は金と銀で出来ている」などと述べられている、と。
 この「僊人」が後漢以降「仙人」と表記されるようになり、翼をもち、空を飛翔し、長生不死の存在とされたようである。

 一方、西には黄河の水源として、不死の世界の崑崙山があるとされ、前漢の劉安の編纂『淮南子(えなんし)』「地形訓」には、「崑崙の丘(やま)の上、その倍の高さの所には涼風山があり、そこまで登れば不死となる。そこからさらに倍の高さの所には懸圃(けんぽ)山があり、そこまで登れば霊妙な存在となって風雨を使役することができる。さらにその倍の所はまさしく上天であり、そこまで登れば神である」と。

 日本人にはむしろ死を潔く受け入れることを良しとする考えがあるように思うが、中国には不老不死を強く望む者が多くいたようで、秦の始皇帝などは気が狂ったようにそれを追い求めたようである。
 不老不死の存在つまり仙人となるための方法も色々と開発されたが、今の我々から見ると、どう考えても命に関わるだろうというような物騒な方法が多く、実際多くの者が命を落とすか廃人となってしまったようだ。

 さて。これらの「神仙説」は、やがて老子の唱えた「道」の教えと結び付き、道教として発展する。
 どうしてそうなったかというと、道の教えは、世の中の出来事に一喜一憂せず自然体でいれば、精神も肉体も苦しむことなく、自ずと長生き出来る、というような教えだからだ。
 そこで神仙説の伝道者たる方士たちは、この「長生き出来る」という部分を殊更にクローズアップし、やがては老子自身の生没年が曖昧(最も古い言い伝えの年に生まれ、最も新しい言い伝えの年に亡くなったとすると、数百年も生きたことになる)なのを良いことに、人間界を超越した神であるということにして信仰の中心に据えるようになった。

 道教の始まりは、「神仙説」を唱えていた方士たちの祈祷や服薬(いわゆる丹薬と呼ばれる物や、呪符を水に溶かして出来た上澄(符水)を飲ませる)といった怪しげな民間信仰であったが、老子の教えを取り入れたことから精神的な支柱が出来、更に仏教の思想や組織の形態を取り入れるようになって、道教という一つの宗
派として成立していくことになる。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 と。ここまで『天官賜福』の話は一切しないまま来たが、物語の中にその影が見えるのは感じ取ってもらえたろうか。
 神だの仙だのわかりにくいが、崑崙山の話にあったように、修練を積み(崑崙山でいうなら、山を上るということだ)、寿命を不死と呼べるほど延ばした者が仙人であり、その先に進んで更なる試練を乗り越えた者が神(『天官賜福』では神官と呼ばれている)と考えてはどうだろう。

 仙人は人界にもいる。山の途中で、未だ地に足を付けたままなので、「地仙」と呼ばれたりする。ちなみに、同じ作者(墨香銅臭)の『魔道祖師』は、この地仙の物語である。
 天まで行き着くことが出来れば神と呼ばれるが、これを「天仙」と呼ぶこともある。つまり、あくまでも地仙の延長線上にあるのであって、いずれにしても元人間ということに変わりは無い。

 『天官賜福』の世界の神(神官)は、いわゆる全知全能の神では無い。法力が使える等人の出来ないことも出来るし、多くの場合人を見下しているような態度を取ったりするが、泣いたり笑ったり怒ったり、また誰かを恨んだり愛したりする、誰も彼も何処か愛おしい存在である。

 道教の方が物語のベースになっていると思うのだが、少し長くなったのでほんの触りしか話せなかった。いずれまた別の機会に。
 尚「天仙」「地仙」に関しては、別の言い方をしている場合もあり、「地仙の方が上位で神を使役する存在だ」という考え方もある。道教自体、宗派として成り立っている部分と、民間信仰として一部に伝えられている部分があるので、こうだと一言で言い切れないのが悩ましいところだ。

<参考>
 『中国思想史』 小島祐馬 2017年(復刊) KKベストセラーズ
 宗教の世界史6『道教の歴史』 横手裕 2015年 株式会社山川出版社

宜しければサポートお願い致します まだまだ初心者、日々頑張って参ります