◎脇役列伝その1:藍思追(3−2)
(◎脇役列伝その1:藍思追(3−1)の続き)
ここからは第五章「陽陽」。翌朝の場面だ。
藍思追は藍景儀と共に、莫玄羽(魏無羨)を起こしに行った。静室の木の扉を軽く二回叩き、声をかける。
「莫公子? 起きてますか?」
「起きてるけど、こんな朝早くにどうした!?」
「早……早い? でも、もう巳の刻ですよ」
思追は戸惑ったように言った。藍家の人間は皆、卯の刻に起床し、亥の刻に就寝するという非常に規則正しい生活を送っているからだ。起床時間を二時辰も遅れているのに? と。
「まだ起きられない」と莫玄羽(魏無羨)。
「えっ、どうしたんですか?」と気遣う思追。
「どうしたって、俺はお前らんところの含光君に襲われたの!」
でたらめな言葉に怒り出す景儀。だが莫玄羽(魏無羨)は「一晩中襲われてたんだ!」と悲壮な声音で答える。
彼らは、扉の前で顔を見合わせて黙り込んだ。含光君の住まいである静室には、何者であっても勝手に立ち入ることは許されないため、直接入って引きずり出すこともできない。
景儀は苛立ちを込めて怒鳴った。
「さあ起きろ! それでさっさとあのロバをどうにかしろよな。うるさくてかなわない!」
「俺の林檎ちゃんに何したんだ!? 勝手に触るなよ、蹴られるぞ」
「林檎ちゃんってなんだよ?」
「俺のロバだよ!」
静室から出てきた莫玄羽(魏無羨)は、ロバのところまで案内してくれと彼らを急かす。
広い草地に連れて行くと、ロバが盛んにいなないている。思追と景儀は、早朝から勉強していた人たちに、それを黙らせろと何回も怒られていたのだ。莫玄羽(魏無羨)が林檎をやると、ロバは静かになった。
だがその時、雲深不知処の四方から鐘の音が鳴り響く。それは警鐘のように激しく打ち響き、尋常では無いその音に、思追と景儀は血相を変えて走り出した。
鐘の音は「冥室[めいしつ]」と呼ばれる角櫓から響いていた。ここは藍家が招魂の儀式を行うための建物で、櫓の上の鐘がひとりでに鳴り響く時は、中で儀式を行なっている人の身に何かが起きたということを示す。
冥室の外には、藍家の門弟がどんどん集まってきたが、中で何が起こっているかわからない以上、軽率に中に入ることはできない。
と、突然漆黒の扉がバンと音を立てて開き、白ずくめの校服を着た門弟が一人、よろめきながら飛び出してくる。直後、冥室の扉は再び閉じてしまった。
皆が急いでその門弟を助け起こす。莫玄羽(魏無羨)が彼の腕を掴み、真剣な顔で尋ねる、「いったいどんなモノの魂を召喚していたんだ? 中にはまだ誰かいるのか? 含光君は!?」
「含光君が、逃げなさいと……」
門弟は息も絶え絶えに苦しそうな声を絞り出し、さらに何か言おうとしたところで、赤黒い血が、彼の鼻と口からどっと溢れ出てきた。思追の腕に、莫玄羽(魏無羨)が彼の身を預ける。
莫玄羽(魏無羨)が冥室の扉を蹴って、荒々しい声で「開け!」と叫ぶと、扉は突然開き、彼が中へ入った途端、また閉じる。数名の門弟が中に入ろうとしたが、どうやっても開くことができない。
「今の奴はいったい誰なんだ!?」
客卿の一人が解せない状況に混乱して怒鳴ったが、思追は歯を食いしばり、先ほどの門弟を支えながら皆に声をかけた。
「……先にこちらを手伝ってください。彼の目、耳、鼻、口……顔中の穴から血が溢れています!」
やがて、冥室の扉が弾かれたように開き、櫓の上の警鐘も鳴り止んだ。外にいた門弟たちが一斉に駆け込み、「含光君!」と口々に叫ぶと、藍忘機は叔父の藍啓仁[ラン・チーレン]の脈を測りにいった。
中では数名の者が、顔中の穴から血を流して倒れている。藍忘機が先頭に立って指揮をすると、皆も落ち着きを取り戻して動き出した。
思追は暗い顔をしていた。
「どうした?」と莫玄羽(魏無羨)。思追はとうに莫玄羽(魏無羨)が只者ではないことに気づいていた。しばらくためらったあとで、「……少し、申し訳なく思いまして」と小声で答えた。
「何が申し訳ないんだ?」
「その左腕の狙いは、私たちだからです」
「なんでそう思った?」
「召陰旗は、等級ごとに描き方が異なり、威力も違います。あの夜、私たちが莫家荘で描いた召陰旗は、周囲五里にしか効果がないはずのものでした。ですが、その左腕は殺気が非常に強く、しかも人間の血肉と精気を食べていました。もし、それが最初から五里以内にいたのなら、あの凶悪さと残虐さを考えたら、莫家荘はとっくに死屍累々の状態になっていたはずです。でも、左腕は私たちが到着したあの夜に突然現れた……つまり、悪意を持った誰かが、わざとあの時間に、あの場所で放ったことになります」
「しっかり勉強していて、いい分析だな」
「ならば、莫家荘で亡くなった数人の命は、おそらく私たちにも責任が……なのに今度は、藍先生たちまで巻き込んで、昏睡状態にさせてしまったなんて……」
思追は悄然として俯く。少しあって、その肩を莫玄羽(魏無羨)がぽんと叩いた。
「責任を負うべきなのはお前らじゃなくて、左腕を放った誰かだ。世の中には自分ではどうにもできないこともある」
藍忘機は藍啓仁の手首からようやく手を離して、告げた。
「根源を突き止める」
莫玄羽(魏無羨)も同意したが、景儀は「いったいどこから探すっていうんですか?」と尋ねる。
「北西だ」と藍忘機。左腕がその方向を指し示していたのだ。叔父を皆に託し、藍忘機はすぐにも下山しようとしていた。
「やったあ、これでやっと下山して駆け落ちできるね!」
聞こえよがしに言う莫玄羽(魏無羨)に、皆は一様に見るに耐えないという表情を浮かべ、年上の門弟たちは特にぞっとした様子だったが、莫家荘で面識のあった思追らはだんだん慣れてきたようだった。
以上。大梵山から雲深不知処へ戻った藍思追の様子だった。
魏無羨に対する態度が段々と、信頼と共に親しみのあるものへ変わりつつあるのが窺える。
この後しばらく藍思追の出番はない。
次に登場するのは、魏無羨と藍忘機が「片腕兄さん」の両脚と胴体をみつけた後、深い霧が立ち込める蜀東の「亡霊の棲む町」だ。