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世界史-古代中国②【春秋戦国ー壱】

こんにちは。前回は、中国最古の王朝とされる【殷】と、それを滅ぼした【周】の歴史をまとめました。本日は周が衰退している頃から【秦】までの春秋戦国時代をまとめたいと思います!…が、長くなるので記事を二つに分けて書いていきます。よろしくお願いします(⌒∇⌒)

春秋戦国時代とは

これは東周から秦が興るまでの時代の呼び名です。それを二つに分けると、東周に王朝興る~周りの国が覇権争い(前半)‥が春秋時代で、覇権争い(後半)~秦が成立‥までを戦国時代。‥多分ね。(;'∀')この春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝が誕生するわけです。
どんな時代だったかは⇓⇓⇓

春秋戦国時代とは、周王朝が諸侯の助けを得て都を東に移し、かろうじて保ったその権威がだんだんと失われていき、地方の群雄が割拠し勢力争いをしていく時代です。

中国語スクリプト〈中国の歴史〉から

領域国家が誕生!


まず、最初に話しておきたいのは国と諸侯についてです。
そもそも諸侯って周王に忠誠誓ってんじゃないの⁈と思いましたが、結構そうでもないようです。確かに周王と強い繋がりがある諸侯もいますが、代替わりすることでその気持ちも薄れ、父親は周王に恩があったが、息子の俺はない!みたいな。(笑)諸侯とは基本世襲なのです。最初に領土をもらった父親と、それを継いだ息子や孫はだいぶ周王に対する想いに違いがあるでしょう。そんなわけで、仲良かったのに、年数が経って状況が変わったら周を襲うようになる諸侯もいます。それに周が反撃したり、周を守るという名目で他の諸侯が争い始めたり‥。もう周とか関係なしで、普通に諸侯同士で争ったり‥。そして負けた諸侯の国は勝った国に吸収されていくのでした。

春秋五覇

王朝の主役は周です。周王朝ですからね。でも、この時代の周はとっても権力が弱かったので、グイグイきてる諸侯達を抑える力は残っていませんでした。
あるとき、長江流域にあった【楚そ】という国が強大になり、「我こそが王だ!」と騒いでいました。これは楚が周を挑発しているような発言と捉えられます。でもその時の周はそれを制する力が残っていませんでした。力を持った諸侯は周を守るために立ち上がります。
この事件で言えるように、もはや周は諸侯に守ってもらうしかない状態なのです。形式上は周の臣下ではあるけど、力のある有力諸侯こそが王朝最大の実力者‥【覇者】である!‥とされたのです。
その覇者は五名!いや!七名!

  • 【斉せい】の桓公(かんこう)‥楚の侵攻を防いで覇者。

  • 【宋そう】の襄公(じょうこう)‥斉が弱まると勢力を伸ばして覇者。

  • 【秦しん】の穆公(ぼくこう)‥襄公が楚に敗れると勢力を伸ばして覇者。

  • 【晋しん】の文公(ぶんこう)‥再び楚を打ち破って覇者。

  • 【楚そ】の荘王(そうおう)‥周王の地位を奪おうとして覇者。

  • 【呉ご】の夫差(ふさ)‥呉最後の王。越とバチバチ!父の復讐を果たし越を追い詰め覇者。

  • 【越えつ】の勾践(こうせん)‥呉を追い詰め、夫差を自決させて覇者。

※何をもって覇者なのかはもう分かりません!(´;ω;`)ウッ…でもまあ、その時とびきり強くて影響力がある人物が覇者なんですかね‥?

五行説

ちなみに春秋五覇といわれていますが、5人であることはあまり重要じゃないそうです。5という数は【五行説】という考え方からきています。これは陰陽説からきているそうで、【木、火、土、金、水】という5つの要素が連続的に、周期的に交代する(入れ替わる)みたいな考え方です。あ~もう自分で言ってても意味わからん!つまり、覇者達も一応五行説にならって5人で1循環ってことで区切ったんですかね。それに「俺、今日から春秋五覇の一員な!」みたいな使われ方ではなく、後に付けられたものだと思うので、この春秋五覇という言葉は覚えておいても、意味は覚えなくても良さそうです。ただ、この五行説は今後も出てくる考え方なので、次回もっと深堀りしていきます。

長江流域の勢力が増す

(岡本隆司監修 中国史から引用)

上記の覇者七名の説明のときに、自分で書いていて思いましたが‥ここらへんから長江流域の国が続々と目立ってきています。楚、呉、越のことです。この時代(漢の時代まで)、中国では政治、経済、文化において、中原(黄河流域)が中心となっていました。つまり長江流域より発展していたんです。長江流域でも古くから文明が育っていたんですが、全体的に湿地で、未開発な土地‥というイメージでした。しかし農業(稲作)には適していたので、ここからグングン成長していきます。長江流域(江南)の開発は呉からかな~と思います。なので楚、呉、越の勢力が増してきているのも、江南(長江流域)が豊かになってきたということを裏付けているのではないでしょうか。

戦国時代に突入!

このように、どんどん江南の勢力が中原に絡んでくるようになりました。学ぶ側として範囲が広くなり苦しいです‥。ですが、この中原と江南全体の諸侯同士の争いで中国自体は疲弊していきます。なんたって周の始めの頃(西周の前期)に1800あった邑(都市)の数が、この頃には10分の1以下まで減ってしまうんですから!どんどん強い邑に集約され、もはや邑制国家という政治体制ではいられなくなります。ここからは邑の連合体ではなく、専制君主が一定の勢力範囲を支配する領域国家が形成されていくのです。中国の中にたくさん国があってすごいですね~。でもまだ東周は存在しているので、一応周に仕えているという体面は保っている様子です。さあここから戦国時代に突入します。

ここで力尽きたので、次回に持ち越します!ありがとうございました!

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