「人外もの」が好きだとか、纏まらない鑑賞メモ
主に「人外もの」で、最近観た作品やなんとなく思ってるけど全く纏まっていない考えなんかを、ただ列挙してみるメモ
アニメ「人類は衰退しました」に衝撃を受けた。
『妖精さん』なる異常な、非物質的な、的な存在が、当然のように『ひと』とともに暮らしている世界。
それが妙にリアルで、まるで実世界と地続きの未来の「予言」のように感じたことを覚えている。
「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3」
最前列で首を痛めながら巨大なスクリーンを見上げながら観たこの作品にも、大きな衝撃を受けた。ラストシーンで、人間も、動物も、そうでない者たちも、皆が踊っているシーンが印象的だった。(めっちゃ泣いた)
人という概念が揺らぐことに感動したのかもしれない。
「フェスタ・マニフェスト」(福間未紗の1999年発売のアルバム)。「宇宙」に関する楽曲が多く見られ、個人的には「私とあなた」という身近な関係性と、「人類とヒトならざる存在」という巨大なスケールのその関係性が、並列に示されている、そんな印象を受ける。
また、彼女のファーストアルバムである「モールス」に収録の「ダンダン」も好きだ。『ボクたち空見上げ ずっとかけてく 遠い異星の光がふりそそいで もうじき君に会える!』の歌詞からは、『ボクたち』=「私とあなた」に対する『君』という3者間の関係性が想像された。(星の光を目指して、キミとボクが駆けていると捉える事も出来るんだろうけど)また、これは2ndアルバムのタイトル『君の友達』も想起させる。
私とあなたの関係性。それを超越した、或いはそれを保留とした上で現れる第三者の存在。
他に
・「ちょびっツ」
・ちぃのご都合主義的なヒロインとしての側面と、人間的でない部分のリアルな描写の対比がすごく良かった。
・OPアニメーションの冒頭で、リアルな目から、サーモグラフィーの様な(魂の抜けたような)目へと変化していくあの表現が好き。魂の存在が視覚的に捉えられないことの暗示のように見える。
・「沙耶の唄」
・主人公が「外見」という認識から逃れることのできない不条理さが良かった。異形の存在、『気持ち悪い』相手と理解し合うことの困難さというか。どんなに直感的な嫌悪を感じる相手とも、親身になって関係性を気づいたら理解し合えるんだ、一緒に生きていけるんだ、とそういう理想的な(ある意味では甘い)フレーズや認識に疑問を投げつけられた気分がした。どれだけ良い人間であろうとしても、「外見」という、極めて表面的な部分さえ乗り越えることは困難なのだと、はっとした。
・「オーラリメイカー」
・主人公は、「知能流」に参加し、肉体を失って以後もとても人間的なキャラクターとして在り続ける。それが面白いなと思った。
・「原神」
・ヌヴィレットが好き。以上。
自分が自分であること。人間であること。自分がここにいること。どうしようもない現状があって、常に、生きるために対処すべき事柄が、関わらずには済まない他人がいて、そういう中で自分は生きている。
妖精みたいなふわっとした何かが存在する未来、人も動物もアンドロイドもみんなが一緒に暮らしている世界、体を失って、永久の時を生きるようになった未来。空から魚型の空飛ぶ円盤がやってくる空。異星の友人を迎えに、友達と走る夜。
そんな空想はただの現実からの逃避なんだろうか。
誰かと分かり合いたい。
それは、対処すべき現状として目の前に存在している人間関係等として、それから、自分の思考を伝達可能な形に出力すること(創作)などとしてある。
創作に倫理観を持ち込むのは、出力される作品の側からすればあんまり良い影響を与えない場合があるのかも。
人外ものに惹かれるのは、自分が他人と関わるのが苦手だからだと、それは間違いない気はする。
まぁそれならせいぜい成果発表の場くらい大切にしないと。
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