RKS47ノート網代3「則松の古墳」

画像1 RKS47ノート網代3「則松の古墳」 令和5年12月29日 ヤブ 網代の則松・宇田・秋沢とかそういう地名があるんですけれども、その山裾あるいは山の上に古墳が昔はたくさんあったんですね。今は耕作なんかでずいぶん無くなってしまってるんですけれども、それでも今現地へ行きますと山の上に古墳が見れるとこいっぱいあります。この山、なんでもない則松の先端にありますポコッとした山なんですけれども  ズボ 普通の山ですね  ヤブ 一番てっぺんに登っていくんですよ、上がっていきますと実はてっぺんにこんな物があるんですね
画像2 ズボ なんですか?これ  ヤブ 石の部屋  ズボ 石室がある  ヤブ そう石室があるんですよ、ここに  ズボ ていうことはこれ古墳ちゅうことですか
画像3 ヤブ 古墳です。実は下の三分の一が埋まってしまっていますんで、あまり大きくは見えないんですけれども、中はこんなふうに石の部屋があって  ズボ 本当だ、ちゃんとした石室だ、ひゃー  ヤブ こういうのが山に上に二つ三つ残ってるんですよ  ズボ あるんですか
画像4 ヤブ まあ小さな山ですんですぐ上がっていけます。例えば秋沢に網代公民館があるんでけれども、その公民館の右手の裏山、すぐそばの小さい山ですけれどもね、そこへ行くとてっぺんにちゃんとした石室がある  ズボ ちゃんとした石室ですね。リューレックスさんはああいうところでかくれんぼしてたんですね  リューレックス そうそう、本巣の舟木山でした  ズボ 糸貫の舟木山で小さい頃かくれんぼをしていたという  ヤブ そういうふうに、あの周辺には古墳がいっぱいある
画像5 ズボ こういう古墳てのは歴史的価値はどんなものなんですかね ヤブ 正直いうと盗掘もされていて中身がよく分からない。高価なものとか珍しいものは殆ど出てこないんですけれどね。 しかし網代地域の歴史からみれば、古墳時代の六世紀七世紀ぐらいにああいう古墳を造る人たちがあの近辺に居住していて、田んぼなんかを耕して生活していた。そういう歴史を語る生き証人でしょうね。ふるさとの歴史を語る  ズボ だとするとやっぱりもうちょっと何かできるといい。  ヤブ せめて説明板があるといい。※網代の古墳から出土の須恵器(岐阜市史)

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