中国歴史旅「雲崗石窟と龍門石窟」④日誌令和元年10月22日その2

画像1 一七時三五分 見学終了し、夕食会場の陝西雍村酒店へ。  一七時五〇分 到着。馬さんや李さんが大きな声で担当料理長に指示しています。日本では考えられない。慌ただしい宴会の準備が進みます。  私は、今回の歴史旅で毎食の食事メニューを記録したいので、李さんにお願いして宴会のメニューを手に入れていただくことにしました。
画像2 ビールやウーロン茶などの飲み物が運ばれてきましたが、日本のようなコップがありませんので、乾杯も大変です。隊長から今日の見学と明日の予定の話があり、歴史旅の初日を祝して乾杯しました。  実は、今日はこれで終わりではありませんでしたがその話は跡でお話しします。
画像3 一八時 楽しみな宴会が始まりました。料理が次々と運ばれ卓上からはみ出しそうです。南城隊員には料理の写真撮影をお願いしてありましたから、私は旅の期間中隣に座り、運ばれてくる料理の器の向きを変えたりするお手伝いをしました。なお、料理写真専用のカメラを持参していただきありがとうございました。また、じっくりと料理を味わうことができなっかたことお詫びします。
画像4 食事を始めると接客担当者が小さな瓶に入ったお酒「大丈夫酒」と小さなグラスを持って試飲をみんなに勧めました。「毎晩飲むと元気がわくよ。身体にいいよ。西安のお土産に最高だよ」と、販売を始めました。  二杯試飲してから食事をしながら値段交渉です。口火を切ったのは南城さん。最初は一本一五〇〇円、次に三本で三六〇〇円、最後は4~5人が購入する条件で四本四〇〇〇円」で手打ちしました。初日からお土産を手に入れました。小さなグラスは割れないように紙に包み記念品として持ち帰ることにしました。
画像5 自宅に帰ったら一本で二〇日余り、ちびちびと中国歴史旅を思い出したり、友人知人へのお土産にします。それにしても接客担当者は日本のレストランなどで働いた経験もあり、積極的に隊員に声かけし対応しているのが印象的でした。  お酒の中身は、白酒ににんじん、枸杞、大□、山蒟など全部で一四種類をつけ込んだ物で、酒精度は三二パーセントと表示されています。瓶の中には人参と枸杞が沈んでいました。  あっいう間に宴会が終わりました。※左から運転手さん、馬さん、李さん
画像6 料理の内容 苜蓿肉( 豚肉、百合根、たまご、きくらげ炒め) 宮保鶏丁( 鶏肉、キュウリ、ピーナツ、ジャガイモ炒め) 魚香肉絲(香魚、ピーマン細切り炒め) 麻婆豆腐(マーボトーフ) 西紅柿炒鶏蛋(トマト玉子炒め) 香炸春巻(春巻揚げ) 干□菜花(ブロッコリー) 上湯津白絲(ジャガイモ細切り炒め) 揚州炒飯(炒飯) 西紅柿鶏蛋面(トマト玉子面) 西紅柿鶏蛋湯(トマト玉子スープ)
画像7 一九時一〇分 ホテルの西安紫金山大酒店に到着。隊長から今夜の学習会の予定を聞いた後、部屋に向かい荷物など運び込み、一息つく間もなくロビーに集合し、近くの和頤至尚酒店に移動しました。  二十時 隊長の挨拶で学習会が始まりました。講師は宗紅宇先生、四三歳。宗先生より「お話の進め方は隊員の皆様から質問していただき、それに答えさせていただく方法で講演しますのでよろしく。」ということでした。相撲取りのような恰幅がいい先生で、優しそうでもありました。宗先生は奈良県の橿原考古学博物館に勤務されてたそうです。
画像8 「みなさんは何かしりたいことがありますか?質問してください。お答えします」  最初は白木隊員が質問しました。「殷の紂王から周の武王に変わるときの周原はどのような状況でしたか?」  宋講師は、「今の質問は地図を書かないといけないな」といいながらホワイトボードに陝西省の地図を描きながら、馬さんの通訳を交えていろいろと説明をしていただきました。
画像9 私の一番印象に残ることは「歴史では地貌学(地表面の様相を知る)が大事で、今後は土地の特色を(高低、起伏、斜面など)を考慮して考古学に取り入れ研究することが大事なことです」という話です。宋先生は「顔形状様式」と説明されていました。  山に話では北山、岐山、南山がでてきました。川の話では沖積平野の出来方をわかりやすく図解していただきました。川の両側はとても住みやすい土地で、広大な場所に周の最初の都鎬京ができたということでした。
画像10 次に南城隊員の質問です。 「周時代の服装と衣服の繊維はどんなものですか?」 宋講師「答えにくい質問です。残っている物がありません。青銅器の模様で判断します。古代人は詳しく書きませんでした。」
画像11 次に薮下隊長の質問。 「青銅器の話がありましたが、副葬品としてお墓から出土するのは理解できますが、地下の穴蔵から発見される理由はなんでしょうか?」 宋講師「とても答えにくい質問ですね。一般的に周の末期に遊牧民が侵入してきたので、貴族が逃げるときに穴蔵に埋めたといわれています。」
画像12 隊長「侵入するまでに時間があれば青銅器を持って逃げることができたはずですが」 宋講師「最初から考古学者が発掘した穴蔵はありません。穴蔵は祭祀場で大切な道具だから埋められたと思います。」 隊長「再び戻ってきて掘り出そうとしたときのための目印はありましたか」 宋講師「農民が発掘して証拠が無くなってしまったのでわかりません。表面には何もあrません」
画像13 隊長「時間がありませんので最後に形山さんから」 形山「青銅器を造る技術は最高ですが、鋳造するばあいは高い温度が必要になりますが、熱源は木ですか石炭ですか。また、銅や錫の材料はどこで手に入れましたか。大きな青銅器の製造方法と内部に文字を入れる方法はどうしたのですか」 宋講師「文字の彫り込み方法はいくつかは想像されていますがまだ研究中です。燃料は木片で鞴を使用しています。銅は揚子江地域の物ですが、錫と鉛はわかりません。」隊長から宋先生へのお礼の言葉と講師料、お土産の贈呈がありました。
画像14 宗先生の講演が終わると続いて馬先生が「西安市の歴史」と「二〇世紀中国の考古界十大発見」についてお話ししていただきました。二一時三〇分 馬さんのお話が終わって隊長から「明日は五時モーニングコール、六時二〇分ロビー集合、六時三〇分朝食、七時にバスで出発し高速鉄道の西安北駅に向かいます」という説明がありました。会場の片付けを終えて、部屋に戻りました。やれやれ大変忙しい一日でした。

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