廃線・廃道探訪【羽村山口軽便鉄道①】
我らがオアシス、狭山湖・多摩湖
狭山湖は正式名称を山口貯水池といい,埼玉県所沢市・入間市にまたがる人造湖である。完成は1934年(昭和9年)。同時期に作られた多摩湖(村山貯水池)とともに東京都水道局によって建造・管理され,東村山浄水場や境浄水場に水を供給し東京の上水道を支えている。水源は多摩川の取水堰2か所だが,一部には天然の湧き水からも取水されているらしい。
まだ寒さが残る3月ごろに来訪した。堤防上は狭山湖周辺の狭山丘陵までを含む埼玉県立狭山自然公園の一部として一般開放・整備されており,地域の人々の憩いの場となっている。そもそも狭山丘陵自体が周りを平野に囲まれた立地であり、周辺はすべて開発済み。狭山湖と多摩湖は人造湖でありながら、狭山丘陵とともに都市部では貴重な生物の生息場所としても機能している。
たとえ海でなくてもこういった水辺の風景を見ると、テンションが上がってしまうものである。やはり海無し県民にも生命の母たる海への憧れはあるのだ(?)。
そんな陸のオアシス(?)こと狭山湖は、湛水面積が189haと東京ドーム40個分。総貯水量は200億リットル以上に及ぶ。こんな巨大な溜め池がどのようにして誕生したのか、その様子を伺い知れる案内板が貯水池の畔にあるので見てみよう。
上水道では賄いきれなくなった水需要を補うため,計画からおよそ20年の歳月をかけ2つの貯水池が造られたことがわかる。謙三予定地となったいくつかの村が消滅したほか,最盛期には1日当たり2000人もの人が工事に携わるなど,多くの人々の協力のもとに建設が行われていったことがうかがえる。画像はないが他の案内板には,水源から上水道へと水が供給される過程なども書かれていた。
なんと,こんだけ蓄えられた水は,なんと約4日で使い切られてしまうらしい…。大正~昭和初期という時代に,海外から取り入れた当時最新鋭の技術なども利用し多くの人的・場所的資源や資材を投入してつくられ,東京ドーム16個分以上の水を蓄えられる貯水池が2つも造られたというのは土木の壮大さを感じさせるが,それだけのものを作らしめる水の需要量増加もすごい。水が人間の生活に必要不可欠な資源であることを改めて実感させられる。
これだけの水を蓄えられる狭山湖のダム(山口ダム)はアースフィルダムと呼ばれる形式のもので,コンクリートを主体とするダムではなく,内部に土砂や砂利などを敷き詰めて作られる。そのため堤体の建造には多量の土砂が必要になるうえ,水源となる多摩川から狭山丘陵まで水を引くために水道管も建造せねばならない。このように建造に必要な資材を運搬するために用いられたのが鉄道である。
正式な名称は定かではないが,砂利採取場所および取水場所である羽村から貯水池建設場所である山口村までを結んでいた軽便鉄道である,ということから「羽村山口軽便鉄道」と一般的には呼ばれている。本記事でもそれに倣う。
羽村山口軽便鉄道は,狭山湖こと山口貯水池,および多摩湖こと村山貯水池の建造に用いる砂利や導水管敷設に用いる資材などを,砂利採取場所である多摩川から狭山丘陵まで運搬するために敷設された貨物線である。先ほども述べた通りまず多摩湖が造られそこから狭山湖の建設がスタートしたため,工期は2期にわかれる。この路線は両貯水池建造に利用されたのに加え堰堤かさ上げ工事の際にも利用されており,3期それぞれの開通年度があるうえそれぞれで総延長やルートが微妙に異なる。それもあってか,開通年度は1916年,1918年,1928年など文献によりまちまち。全長は最長で12.6㎞,軌間は609mmとかなり狭い。
ちなみに今日使われる「軽便鉄道」という言葉には,一応「軽便鉄道法」に基づいてつくられたものという法的定義がある。しかし一般には,この法によるかに限らず軌間1067㎜未満の営業鉄道は軽便鉄道と呼ばれる。
都立多摩図書館「東京マガジンバンクカレッジ 多摩の廃線跡を訪ねる 羽村-山口軽便鉄道」という資料を参考に羽村山口軽便鉄道の変遷を時系列順に見ていくと、
①1918年、多摩湖の建設資材、および導水管埋設資材運搬のために、多摩川河川敷から排水管出口までを結ぶ貨物線を敷設。1921年に取水口から排水管までの全線7.8㎞が開通。村山貯水池完成と同時に廃線。
②水需要増加に伴い狭山湖の建設が必要になり,1928年,堰提建設のための砂利運搬を主目的に再び敷設。1929年全線開通。全長12.6㎞。1933年山口貯水池の完成とともに廃線。
③米軍の爆撃による被害を防ぐ目的で,1943~1944年両貯水池の堰提嵩上げ工事を行う。その際軽便鉄道が再度利用され,多摩湖に沿うように若干延長された。
インフラに関わる公共事業のためか,今昔マップで確認できる程度の地理院地図では,当路線が利用されていたと思われる時期のものにも記載されていなかった。先行資料やサイト様などの情報によれば,どのルートも起点は同じく、建設資材である砂利の採取場所である多摩川の河川敷。道中のルートも敷設当時のルートの再利用であるため3期間で変わらず、異なるのは狭山丘陵に入った跡、多摩湖を目指すか狭山湖を目指すかの分岐ぐらいである。今回は狭山湖をスタートして羽村市を目指す2のルートを辿ることになる。後述するが多摩湖堰堤まで伸びる③独自の延長ルートについては,現在全域が多摩湖敷地内に入っておりほとんど近づける場所はない。探訪当時はまだ3月だったが枯れ藪がひどく,柵内部の見通しも効かず外からでは遺構は全く分からなかった。区間的にもそれほど長くなく,法面の掘割がーとか,地形の盛り上がりがーとか,そういうニッチなところになってくる気がするので,自分の中での宿題として残しておく。もし探訪したら,後日小ネタ的に紹介するかもしれない。
2つの廃線と自転車道
埼玉県立狭山自然公園から探索をはじめる。貯水池から出た線路跡はしばらく、現在山口・村山貯水池管理事務所の敷地内になっているため近づけない。当時の面影など当然残っておらず、外からではどの辺りを路線が通っていたかなどは全く分からない。
自然公園を出たあと、なおも廃線跡は貯水池の敷地内。幸いなのは狭山湖に沿って伸びる歩道がほぼ廃線跡に沿う線形になっていることだ。あまりはっきりとはしていないが、先駆者のサイトを拝見したかぎり、この歩道は廃線敷のスペースを利用してつくられた訳ではないらしい。廃線跡はさらに柵の内側、道路よりも一段低くなっている所だと思われる。
県道55号線(所沢武蔵村山立川線)にぶち当たるまで,廃線跡を右手にこの道を進むわけだが、ここは少し珍しい場所となっている。少し進むと、車道を挟んで向かい側にも柵のある歩道が見えてくる。そちらの道は、徐々に高度を上げていって交差点手前で左にカーブし木々の間に消えていく。
実はこの歩道、1984年まで運航していた西武鉄道山口線の廃線跡なのである。「西武山口線って今もあるじゃん」と思うかもしれないが,現在の西武ドーム,もといベルーナドームを迂回して西武球場前駅に向かう山口線は2代目である。初代山口線は,西武球場を超え県道55号線も超え,羽村山口軽便鉄道と少し並走した後これまた現在は閉園しているユネスコ村という遊園地までを結ぶ路線だった。少し手前のかつてユネスコ村遊園地の入り口があったと思われる場所には,初代山口線の終着駅「ユネスコ村駅」の駅舎らしきものが放置されていたりする。
実は昨年,この西武山口線と羽村山口軽便鉄道を合わせて探訪した。上の写真もその時のものである。しかしこの時は道に迷ったり雨にあったりとさんざんでほとんど写真が撮れていなかったので,多摩湖周りの廃線跡と合わせて再訪するつもりである。西武山口線は貯水池周りの観光資源を巡った鉄道会社同士のあれこれや,導入された数々の名車両など見るべき箇所がいろいろとあるらしい。詳しくは後日探訪時のレポートでも書く機会があればそこで。
山口線と羽村山口軽便鉄道の運航時期的に両者が同時期に走っていたことは無いが,とにもかくにもこの場所は目的を異にした2つの時代の(広義の)軽便鉄道が並走する,ロマンあふれる場所なのである。
閑話休題。羽村山口軽便鉄道の廃線跡はその後も少しの間,歩道に沿って道なりに進む。相変わらず歩道よりも一段低い柵の内側を走っており,藪で視界が遮られるためそれっぽい平場の存在をなんとなく感知できる程度である。
道は県道55号との交差点へ。埼玉県道・東京都道55号は,埼玉県所沢市から東京都立川市までを結ぶ全長6.6㎞の路線であり,主要地方道にも認定されている。途中このように多摩湖に沿いながら多摩湖と狭山湖の間を縫うように通っており,多摩湖南側周囲を通る市道「多摩湖通り」と合わせ多摩湖を周回するようになっている。交通量はかなり多い。
県道55号の多摩湖側には立派な自転車・歩行者道がしつらえられている。これは単に多摩湖観光用に整備されたものというわけではなく,実はれっきとした都道の1つなのである。都道253号は東京都西東京市の境浄水場付近を起点として多摩湖までを結んだ全22㎞におよぶ路線で,その全線が自転車通行不可能な自転車・歩行者専用道である。正式名称は起点・終点地の地名をとって保谷狭山自然公園自転車道線。
閑話休題(妙に253号の話が長くなってしまったが,よく走る道だったのでちょっとスペース使って紹介させてもらった)。とっちらかってしまったのでここまでの道のりを地図で整理しよう。
現在は⑦地点の交差点を渡ったところ。自転車道を多摩湖の堰堤側に進めば,防弾工事の際敷設された区間の廃線跡を右手に辿ることができる(地図の赤いライン)。が,先述したような状況で遺構の確認は難しそうだ。今回そちらはひとまずおき,緑ラインで示した区間を辿る。
廃線跡は交差点に入る直前に一般道と別れ,そのラインは交差点よりも少しずれたところで現県道55号とクロスする。現道と廃線跡との間の高低差はそのままなので,県道により寸断されてしまっているかもしれない。県道を超えた廃線跡はほとんどの区間が村山山口管理事務所敷地内に含まれると予想され,近づける場所は限られそうだ。近場でどこかアプローチできる場所を求めマップを確認すると,先ほどの交差点から幾分も離れていない場所に「玉湖神社」の存在を発見した。
「玉湖神社」という名前やその地理上の位置を見ても,いかにも2つの貯水池との関連がうかがえる神社である。ちょうど探訪の始まりということで,今回の探索の成功を祈願しつつ境内をうろうろしてみよう。
玉湖神社と6号隧道
多摩湖沿いに走る県道55号沿いに位置する玉湖神社。どうやら読み方は「たまのうみじんじゃ」というらしい。湖をうみと呼ぶところに海なし県民風味を感じなくもないが,当時にしたらこんだけでかい湖は実質うみだったのかもしれない。創建は1929年と多摩湖竣工の2年後。祀神は大山祇神(おおやまつみ)と罔象女神(みつはのめのかみ)だった。大山祇神とは山の神の総元締めみたいな神様らしい。罔象女神は音の響きが示す通り水の神様。多摩湖竣工時に多摩湖の水神を祀るため当時の東京府水道局によって創建されたが,昭和42年に祭祀が終了し,現在は何も祀っていないらしい。
…祀神がいないってどういう状況なんだろう…と思いましたが,画像を拝借させていただいたサイト様に説明がありました。どうやら公共団体が神様を祀るということ政教分離の観点から問題になったらしく,「御霊遷し」なる儀式を行い祭神を他の場所に移したそう。なので現在ここには祀っている神様はおらず,空き家状態ということ。正確には玉湖神社「跡」ということなのである。創建が戦前,御霊遷しが1967年ということで,国家神教から政教分離への移り変わりを感じさせる。
かつて拝殿があったであろう場所は現在土台のみが残され,拝殿自体は撤去されてしまっていた。これは御霊遷しとは関係なく,東日本大震災により倒壊の危険が生じたためだそうだ。鬱蒼と茂る林の中で妙に空が開けた明るい空間が,抜け殻のようでなんだか余計にさみしい。
拝殿跡の左側には二基の石碑が安置されていた。表面の字は「殉職者之碑」。貯水池工事で殉職した人々を偲んで造られたものだった。探訪当時の私は祭神がいないことなどつゆ知らず,東京の生活基盤の礎となった人々に思いをはせつつ,旅の無事を祈願したのであった。
そんなわけで…
ようやく本題へ…
神社の拝殿あたりから見まわしてみても,あたりは木々に囲まれこれといって多摩湖側へ抜けれそうなルートは見当たらない。まあ普通にかき分けてもいけそうなんだが,今回はそうするまでもなくアヤしいアクセスポイントが見つかった。車道側から玉湖神社へのアクセスポイントは先ほどの鳥居のある参道だけではなく,そこからほんの100mほど進んだ場所にもある。上図マップの赤い線がそれだ。
神社境内は車道よりも3,4mほど高い場所にあり,こちら側は境内を若干迂回するように回りこみながら高度を上げていく道になっている。
道はすぐに峠になり(といっても周りより少し小高くなっているだけだが),登り切ったところから左に曲がって玉湖神社へと向かう。ただこのアプローチルート,googleマップにははっきりと示されているものの,現地ではあまり明確に認識することができなかった。上の画像でも,黄色い方のルートはあとから動画を見返してそれっぽいと思ったところに線を引いているだけなのだ。実際地理院地図の方にはこの道は描かれていない。それよりも目立つのは,登り切ってから多摩湖に向かい直線的に下っていく道(画像の赤点線)。地理院地図では最大拡大時にこちらの道のみが描かれていて,玉湖神社へ向かう道は描かれていない。地理院地図のほうが現状に即していると感じた。
玉湖神社方面へ向かうルートからわかれた道はゆるやかに下っていき,すぐに下り切り平場に出る。前に見える黒柵よりも向こう側は多摩湖貯水池の管理地内に入り立ち入りはできない。ここまでか…と思いきや…
下り切った場所は黒柵に沿って細長く続く平場の一部となっている。最高点からここまでで約8mほど下っており,現在地はおそらく車道よりも低い位置だ。右手に見える柵の内側はさらにゆるく下っていき,やがてすり鉢の底にある多摩湖へ続く。つまりこの平場は多摩湖を形成するすり鉢状の斜面の途中で,等高線に沿うように伸びているのである。
そう,今立っているこの何気ない平場こそ,羽村山口軽便鉄道の第二工期,すなわち山口貯水池建設時に敷設された区間そのもの…と思われる場所なのである。
それという根拠は現状のところ,境界杭一本さえまったくもって見つからない。しかし画像奥側に見える斜面が急になっている地点では,意図的に線路一本分の空間が確保されているように見えるところに,なんとなく線路敷の雰囲気を感じることができなくもない。一体どこまでたどれるだろうか…まずは車道側からでは確認できなかった痕跡を求めて,もと来た方を狭山湖側へ可能な限り辿ってみよう。
結局すぐに右手に見えていた黒柵にそのまま回り込まれる形で寸断される。「はーいここまでー(笑)」といわんばかりで若干引っかかるが,そのあまりに粗い網の目の遮蔽効果は十分ではなく,黒柵の向こうへ続く廃線跡の様子は金網の隙間からばっちり見えている。スケスケだぜ👀!!
この先,廃線跡は多摩湖堰堤へ向かう第三期区間と分岐し,その後すぐに県道55号と交わる。県道が廃線後改修されたりすれば,廃線跡よりも高いところを通っていることから,築堤に完全に遮断されている可能性が高い…
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!!!
意外!!!それはトンネル!!!!!
廃線となってから約90年,時代の波にさっぱり飲まれてしまっていたと思われていた貨物線の痕跡は,意外なほど手つかずの状態で残っていたのである。あまりにもさも当然かのように築堤の側面を貫通するように空いた空洞は,ほんとに意識していない時にパッと出くわしたら用水路を通すための穴のように一瞬錯覚してしまうかもしれない。しかし,上から下に細くなる馬蹄形の断面,断面を取り巻く要石まで完備のアーチ環などは,明らかに鉄道トンネルのそれである。
このトンネル,羽村市側から数えて6個目の隧道であることから,そのまんま6号隧道などと呼ばれている。正式名称は分からない。正確な竣工時期についてもわかっていないが,先行資料やサイト様の情報を鑑みるに狭山湖建設時に新たに敷設された区間に属している。そのためおそらく1920~1930年の間につくられたものとみられる。土木関連の工法に関する知識の全くない素人なので,パッと見てもトンネルの工法やそれが用いられた背景などは分からない。ネットで探りを入れてみたりもしたがなかなか情報は出てこず,トンネルの詳細については分からずじまいである。素人ながらに手元にある資料と写真から,この6号隧道を見てみよう。
ちなみに,藪が濃く全然わからんが,6号隧道の手前から右方向に第3期区間(冒頭マップの青色区間)が分岐している。
トンネルの覆工について
6号隧道がつくられた1920年代といえば,鉄道トンネル的にはレンガ・石積覆工やコンクリートブロックによる覆工に代わり,場所打ちコンクリート覆工が使われるようになった時期である。道路トンネルにおいては,レンガや石材による組積造から場所打ちコンクリートへと切り替わっていく過渡期,具体的には昭和初期の隧道などに,本来強度的に必要のないアーチ構造が意匠として坑門にしつらえられていることがある。
そもそも覆工というのは,穴をあけたあと周りからの地圧により壁面が崩れるのを防ぐため,アーチ状にレンガや石材,コンクリートなどを敷き詰め表面を保護する施工を言う。覆工はさらに2種類に分かれ,レンガや石材,コンクリートブロックなどを敷き詰めて表面を覆うのを組積造,現場で型枠を仮組してそこにコンクリートを流し込んだのち固めることで表面を覆うのを場所打ちコンクリートという。組積造の場合,最終的にアーチが自立して地圧を支える必要があり,迫石で環状に表面を覆ったうえ要石を頂点にはめ込んだアーチ環構造が必須になる。一方で場所打ちコンクリートの場合はより強度に優れていて,アーチ環構造は必要ない。現在日本中の道路や鉄道で主にみられる,灰色でのっぺりした意匠のない坑門を持つトンネルは,すべて場所打ちコンクリート覆工によるものだ。
それを踏まえてこの6号隧道を見てみる。正直コンクリート製であることがわかるぐらいで,コンクリブロック覆工なのか場所打ちコンクリート覆工なのか素人目にはよくわからん…。ただ,道路トンネルの話で恐縮だが,吹上峠に存在するバリバリの場所打ちコンクリートトンネルである吹上トンネルの内部表面と,トンネル内部の表面の様子が結構似てる…気がする(壁面のコンクリートに細い線が入ってて,短冊状になっていた感じ?)。ので,おそらく場所打ちコンクリート製だろうと仮定したうえで話を進める。
そうしてみると,坑門には場所打ちコンクリートでは本来強度的に不要な迫石・要石を要するアーチ環を持つ。技術の発展により組積造の伝統的構造からの乗り換えが進む過渡期において,それでも貯水池の建設という一大事業に供する要となる隧道であることを主張するために,最低限のアーチ構造を意匠として設えたのかもしれない。完全な坑門構造を有しているわけではないけれども,やはりアーチ環があるだけでこう,シュッと引き締まった印象を受けた。
月並みな言葉だが…渋くてカッコイイ…!
貨物線用のトンネルだから一般大衆にはあまり目に触れられないであろう(たくさん写真が残っている所をみるに実際は地元住民にも広く認知されていたようだが)隧道にこの意匠が施されているのがまたいい。かつてのレンガ・石積み坑門などにみられた各種構造物は,それぞれが必要不可欠な役割を担っていたのと同時に,当時一大事業であった土木工事の成果を堅持する意味合いもあったという。この隧道を建設した人々も,自分がこれからの日本の基盤となる事業に関わる,ものすごいことをやってのけているんだという,プライドというか誇りというか,そういったものをアーチ環に込めたのかもしれない。扁額もなく銘板もない,決して多くを語らないトンネルではあるが,だからこそ坑門に遺されたアーチ構造に,あり得たかもしれない職人たちの仕事に対する心意気を妄想してしまったりする。
断面の大きさは,高さ・幅ともに当時の機関車がぎりぎり通れるくらいのものだったらしい。どう見ても主要な旅客列車などは通行不可能な幅と高さだが,そこは軽便鉄道の利点が活きたのだろう。狭い断面で済むことで技術的・経済的に施工しやすかったのかもしれない。
この6号隧道,のちに登場するものを含めた6本の隧道の中で唯一ほぼ坑門の全貌を見ることができるものだ。だからこそ柵に阻まれ近づけないのが惜しい…。いや,東京都水道局によって管理され,一般に開放されなかったからこそそのままの形で残ることができたのかもしれない。なんにせよ,6号隧道は現在もほぼそのままの形で残り,頭上を走る県道からの地圧に耐え続けながら車道交通を支えているのである。
次回予告
???「全部同じじゃないですか」
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