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【小説】風の音を聞け

   昭和○年×月×日
 戸を叩く風の音で目が醒めた。枕元の時計を見る。午前五時。眠るときは満天の星であった。寝覚めは一転して吹雪である。
「よし、行こう」
 加納さんはすでに起きて、靴を履いていた。あと二、三時間もすれば、この吹雪は止むと踏んでいるのだ。計画通り今日中にこの山を越えたい。私にはもちろん否も応もない。加納さんに付いて行くだけである。
 午前六時。小屋を出発。まずは北岳峠を目指す。靴下は、新しいものを下した。装備は、二重三重にチェックした。大丈夫だ。
 出発して一時間。吹雪はますます激しくなるばかりだ。風の唸りに消されて前を行く加納さんの指示も聞こえない。さっきまでうっすらと右前方に見えていた北岳峠も、濃霧に鎖されて方角が定かでなくなった。長く緩い昇りの斜面が続く。前方一メートルも見えにくい。加納さんはサッサッサッと登って行く。何度となくここを登っているので、体が路を憶えているのだろう。私はあの長軀の加納さんの背中を見つめて、ただ加納さんの踏んだ跡を辿って行くだけだ。
 午前八時。そろそろ手の感覚が失くなりだした。それに、この疲労感はどうだろう。先ほどから、まちがいなく加納さんの足跡の上を踏んでいるつもりでも、振り返ると、私の足跡だけ孤を描いて大きく右に左にぶれている。加納さんのあの赤いリュックをしっかりと見つめて歩いて行かないといけない。
 加納さんに差し出されて、レモン湯を飲んだ。しかし襲い来る睡魔の誘いはどうにもならない。いっそ声を張り上げて唄でも歌いながら歩こうかと思った。すると、突然、加納さんが目の前から消えた。慌わてて、五、六歩、七歩と駆け寄る。二メートルほどの雪の窪地に尻もちをついて、加納さんがこっちを見上げて笑っている。雪庇を踏み外して落ちたのだ。その笑顔にほっとした。いっぺんに眠気も醒めた。
 時計を確認。午前十時。いつの間にか吹雪が止んでいた。ようやく空に明かるさが戻りそうだ。加納さんの声もはっきりと聞こえる。
「ほら、見ろ」
 加納さんが駈け出した。その赤いリュックを追ってすぐあとに続く。驚いた。自分の足にはまだこんなに力があったのだ。
 加納さんの肩口から、尾根が走っているのが見えた。すぐ手前に北岳峠。北岳を越えてその向うに三双ヶ岳だ。空に突き出た三つの三角形が雪を戴き、とても眩しい。特に真ん中の主峯ヶ岳は、今はもうカラリと晴れ上がった青い空に突っ立って、ダイアモンドのような輝きを放っていた。
 
 
   昭和○年×月×日
 今朝、食糧が尽きた。この二日は、加納さんが用意していたレモン湯とチョコレートをかじって凌いできたが、今朝、それも尽きた。あとは水が一日分あるだけである。しかし、予定していたルートとは違ったとはいえ、やっとこの山小屋まで辿り着けた。明日中には麓の駅まで着けるだろう。それにしても外はシンと静まり返り、昨日までの吹雪が嘘のようだ。
 やはり山の天気はわからぬ。まだ紅葉前だというのにこれほど吹雪くとは。二日つづいた吹雪で、とうとう道に迷ってしまった。この槍鞍には何度も登頂している加納さんですら、こうして道に迷うのだ。これが山行きというものか。五日分の食糧しか用意していなかったから、加納さんのレモンとチョコレートの備えがなかったらと思うとぞっとする。
 しかし、実際、今日の空腹にはまいった。加納さんは、レモン湯とチョコレートをひとかじりすると、すたすたと次の峠を目指したが、私一人ではとても同じ様にはいかなかっただろう。空腹がこれ程に辛いこととは、想像以上だ。加納さんと一緒だったから、この二日間、節度よくレモンとチョコレートの分量を守ってこれた。これが私一人だったら、半日で尽きていたかもしれぬ。今日の夕刻にこの小屋まで辿り着けたのも、こんな空腹の中、いま横でおだやかな顔で眠っている加納さんの御蔭である。
 しかし、今日、道に迷ったことで余慶があった。あれ程の壮観な風光に出会えるとは。今夕、越山の頂までが筒抜けであった。
 加納さん曰く、今日われわれが辿ったのは槍鞍の奥ルートらしい。通常、槍鞍を越えるだけならこのルートは採らないということだ。
 まさにあれこそが絶景と言うのだろう。
 午後、南から少しずつ晴れて来て、いつの間にか空にはきれいに雲がなかった。古道の峠を過ぎたあたりで、急に景色が開けた。柄高連峰の屋根が一望であった。屋根の真ん中あたり、向う側に白獄の背中が重なって見えた。そして、普通、槍鞍からは見えぬはずの越の山が、この角度からは見えるらしい。うしろ姿の頂に白い冠を戴いて、越山が、白獄の遥か向うに高々と聳えて在った。
 空の青、白雪の越、そして夕べの残照を受けた白獄と柄高の蒼々峰々。槍鞍の深き緑を前景にして、萌した陽光に映ゆる峰々。とりわけ、吹雪のあとの新しき陽に輝く越の頂の雪の白さの神々しきことよ…。
「こんな出会いがあるから、また山を行きたくなるんだ」
 横で、加納さんの声がした。
 私はその声を聞くまで、隣にいる加納さんの存在を忘れていた。
 
 
 今宵、久しぶりに、かつて付けたこのノートと接している。
 今また、こうして読み返してみると、まるで隣に現に居るかのように、二人で山に登った日々の加納さんの息吹を肌身に感じる。あの槍鞍から望んだ冠雪の越の風光。
「こんな出会いがあるから、また山を行きたくなるんだ」
 この件りになると、私はいつも、加納さんと初めて出会った夜のことを思い出す。
 あの夜も、加納さんは、虚空に響き渡る澄んだ鏡のような凛としたその声で、たった一言だけ、こうおっしゃった。
 
 
   昭和○年×月×日
 今日、出会いがあった。加納龍彦。
 昨夜、私は、生れて初めて本当の風の音を聞いた気がした。
 私に本当の風の音を聞かせてくれたその人と、今日一日を共にした。今朝、小屋を出るとき、思い切って私から声を掛けて本当によかった。独りで山に登り続ける者の心を、今日、初めて聴いたような気がしたからだ。
 一日、加納さんのあとについて山を登った。加納さんは終始無言で先を行く。私も黙々と加納さんの足元を見つめつつ登る。
「光の真珠です」と、加納さんが初めて口を利いた。
 今朝から、空はうす曇りであった。昼になって、ようやく少し陽が差して来た。その時、雲間から漏れた陽光が、遥か前に真っすぐに連なる岩々を照らしていた。その陽に照らし出された岩肌の連なりを指して、加納さんは、「光の真珠です」と言ったのだ。
「独りで山を行くとね、空と山と木々たちと、対話をせざるを得ないんですね。刻々と移る山の自然と対話をするということは、自分という存在と向き合うということなんです――。存分に自分自身と話をするということなんですね――。だから、下山すると、また、人づき合いには苦労しますけどね」
 昨晩のことである。
 泊まった山小屋には、学生風の四人組のパーティがいた。寝る段になり、灯りが消された。だが、その四人組は寝袋に入っても、たぶん学校の女生徒のことだろう、いつまでも声高な談笑を続けていた。
 すると突然、闇を貫いて、奥から声が鳴った。
「話を止めて、風の音でも聞いたらどうだ」
 小屋全体が、しんとした。
 ――私はしばらく、闇を見つめていた。そのうち、私の中で、風の音が大きく唸り出した。終日快晴、寝る前にも空には満天の星。風なんかないと思っていた。しかし、山には確かに風が吹いていたのだ。いや、この世界に、風の吹かない時はないとそのとき初めて知った。
 そのうち、私の中が風の音でいっぱいになり、ついには、山小屋ぜんたいが風の音だけになった――。
 目が覚めた。いつの間にか眠っていた。周囲はまだ眠っているようだ。目を閉じて、しばらくそのままじっとしていた。しかし、昨夜吹いた風は、私の中に、再び立って来てはくれなかった。
 寝袋の中で、私は、もう一度あの風の音を聞きたいと願った。

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