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【小説】朝露のころ

 如是我聞
 言葉が、彷徨っている右上、左下、ふらふらと、右下から左上、そして真ん中へと。銀色に枠取られたフレームの中を、言葉が彷徨っている。
 黒い背の中を、白い光を帯びた「如是我聞」という言葉の行き交う様は、どこか遥か遠く宇宙の虚空を想わせる。
 初めに言葉が彷徨ったその虚空の中に、今度はこんな言葉が立ち上がって来た。
 
   爾時王舎大城有一太子名
   阿闍世随順調達悪友之教
   収執父王頻婆娑羅幽閉置
   於七重室内制諸群臣一不
   得往
 
 この言葉はお経か? いったいこんなお経を、俺はいつ、どこで知ったんだ!
 あ、炎が上がった!燃えている! 紅蓮の焔が中心から輪のように広がっていって、お経が燃やし尽くされていく――。
 水しぶきをあげて、車が行った。手前では、足早に行き交う靴の音たち。ヒールがかけてゆく乾いた音が、ひときわ高い。
 雨、か? 今日は、雨の予報だったか…。遠くでは、微かに電車のゆき過ぎる音がする。…今朝は、あれに乗らなくてもいいんだ……。
 ――、夢か。さっきのお経は夢だったか…。それにしても、たとえ夢の中でも、どうしてあんなお経らしき言葉を識っているのか?
 ふっ、今朝もあの仔たちがないている、あの家の犬たち。――時計の刻む音が頭のさきに還って来た。冷蔵庫の唸る音が聞こえる。いままた、飛沫をあげて車が行った。
 外では、さらに雨の落ちる音。小雨かな? 雨音に混ざって、烏の鳴き声。こんな休みの朝には、烏の鳴く声さえ心地いいな――。あれは、百舌鳥か?
 あの幼い日のトカゲが梅の木に刺さって死んでいた。百舌鳥のしわざらしかった。そうおじいちゃんが言っていた。臓腑も血もぜんぶ流れおちてひからびたように死んでいた。かたむいた顔から、眼だけが、うらめしそうに地の果てを見つめていた。
 ――この冬の雪の高さは、このトカゲほどにはならないよ。
 そうおじいちゃんが言った。百舌鳥がトカゲを木に刺す高さで、その冬の雪の量がわかるらしい。
 そういえば、子供のころ、うちの生け垣のカラタチの棘にも、蛙が刺されて死んでいたっけ――。あれは、白い蛙だった……
 あっ、遠くからサイレンの音が来る。…止んだ。こんな朝にも、誰かが死んでゆくんだ。俺はまだ、この暖い蒲団の中で、今日いち日の朝だけれど…。
 ドッ、ドッ、ドッ――。靴音がやって来る。暗闇の向うから、高く、重たい靴音が行進して来る。
 怖かった、あの長い廊下。おじいちゃんの家の廊下は長かった。トイレがその廊下の端にあって、夜寝る前、もう一方の端にあった父の部屋から、そのトイレに行くのが怖かった。父の部屋の敷居の上に立って、なん度か足踏みをしたあと。眼をつぶって思い切りそのトイレの把手にまで駆けていき、中へ飛び込んで固くドアを閉めた日のことを思い出す。
 ――いま靴音は、その廊下のずっと奥からやって来る。
 甲高く重たい靴の音が近づいて来るブーツの音か? それも、一人やふたりではない! 音は隊列を組んでやって来る。あっ、先頭の靴のさきが見えた。カッ、カッ、カッ――。何人もの、いや、何百人もの黒光りした爪先がやって来る。
 ――一九一〇年、日本軍は半島に侵攻した。本土防衛の生命線である満州経営を盤石とする為、帝國日本はこの年半島朝鮮を併合した。
 でも、今なんでこんな事がおれの意識の中に昇って来るの? ………あっ、そうか、今年がちょうど二〇一〇年だからか? ……
 ここは、どこだろう? どこかの農場の泥濘のなかを、黒光りした踵の隊列がゆく。その踵が飛び散らかしてゆく泥のさきには、韓服をまとった若い女たちが列を成して脇の畦道に跪いて、黒い隊を見送っている。兵隊たちがあげる泥を受けて、その女たちの膝頭は真っ黒だ。あっ、しかし、見ろ、見ろ、跪く女たちの左手の薬指の先が、そろって無い!
 さらに陸続と向うの丘を越えて兵たちがやって来る。何百人、いや、何千人か。――どっ、どっ、どっ。兵隊たちの跫音が来る。
 あっ、ああっ、燃えている! 兵隊たちがゆく道の先でお寺の門のようなものが燃えている。二階部分から、真っ赤な炎を両翼に広げて、夕闇の空のなかを燃えている。噴き上げる黒い煙のなかでは、日の丸を掲げた兵隊たちが猛り狂っている、刀を振り上げて、口々に同じ言葉を連呼しながら…。
 ビュッ、ビュッ、ビュッ――。これは、竹刀の音だ! 西岡か、あいつ、いまどうしてるのかな? あいつとは、たしか小六のとき同じクラスで、たまにいっしょに遊んだ…。あのとき、おれはあの西岡から二百円ぐらい借りてて、ずっと借りてて、返さなくちゃいけないんだけれど、ずっと借りてて――。返すときに、おれの家の裏の空き地に西岡を呼び出して、金を返してから、おれは竹刀で西岡を叩きのめした…。
 あのとき、おれは剣道部で、だから竹刀を持ってて…、あのとき、西岡を叩いた理由はよく覚えてないけれど、そんな理由なんて、なかったかもしれない……
 金を返すからちょっと来てくれ と言って西岡をおれの家の裏の空き地にまで呼び出して、空き地の隅に呼び寄せて閉じ込めて、金を返したあとで、隠しておいた竹刀を持ち出し、はした金を返せってか、はした金を返せってか と何度も叫びながらおれは西岡を撲りつけた。――
 でも、おれ、なんであのとき、あんな事をしたのかな、あの西岡に…。
 西岡――。あいつ、特にいじめってわけでもなかったけれど、クラスのなかでも周りからみくびられてて、いいように使われてた。人が足りてたら、放課後のみんなの野球には入れてもらえず、人が足りないときだけ駆り出されてた。それでも、あいつ、なんにも言わずに笑ってた。そして、ただみんなの言う通りにしてた。おれも、一緒に遊ぶ友だちが見つからないときだけ、そのときだけ最後に、西岡を誘った…。
 でも、おれ、なんであのとき、あんな事をしたのかな、あの西岡に…。その理由が思い出せない。でも、本当は、理由なんて……。
 台所から、幸惠のスリッパの音――。出勤する前に、俺の朝飯を作ってくれてる。その幸惠の足音に重なって、時計の秒を刻む音と水沫をあげてゆき過ぎる車の音…。それらすべての音の背に、静かに降る朝の雨おと…。
 あっ、烏が鳴いた――、これは一羽か…。
 いつか、幸惠から訊かれたっけ。あんなことをした理由を…。でも、あの事にも、そんな理由なんて、なにも……。
 あれは、小学校二年のときだったか。おれは近所の子供たちのなかではちょっとした兄貴分で、夏休みなんかにはよく四、五人の子供らを引きつれて近所の原っぱで遊んだものだ。そんな子供らのなかでも、とくに稔とは二人してよく連れ立って遊んだ。
 あのころ、おれと稔は蛙獲りに熱中した。蛙を摑まえては、口やおしりから爆竹を差し込んで、身体ごと破裂させてた。そのほかにも、いろんないたぶり方をした。幼なかったあの夏の日、二人して原っぱに蛙を見つけに行っては、どの蛙にしようかと色や大きさ、それからどいつが死に値する顔付きをしているかなんて、おれはそんなふうに蛙たちのことを物色していた。
 おれがあのころ、あんな蛙いじめに熱中していたことに、別に理由なんてなかった…。あれはただ、自分が王のように振る舞える、自分より立場の弱い相手を苛めていただけだ。蛙は、おれに向けて抵抗なんかしやしない。だから、蛙だったんだ。自分が専制君主のように振る舞えるから、おれの思うように勝手に裁きが下せるから、相手は蛙だったんだ…。
 あれから三十年――。今でもときどき痛むことがあるこの頭の傷。この傷が疼くと思い出す、あの夏の日の昼下がりの白い蛙の事を……。
 それは、まっ白な蛙だった。稔がその蛙を摑えてきたとき、これだ と思った。おれが裁きを下すのはこの蛙だ と思った。それは、不思議な蛙だった。――一点の濁りもない、まっ白な蛙。いや、手や足の先など、どこかに模様はあったのかもしれない。自然の蛙なんだから、それはそうなのだろう。だが、今のおれの記憶のなかのその蛙の姿は、どこまでもまっ白だ。だから、あのとき、この蛙に裁きを下すのはこのおれしかいない と思ったんだ。それは稔ではなく、このおれの裁きこそぴったりの蛙だそう思った――。
 あとは、どうやってその蛙に裁きをくわえてやろうかということ。稔にその蛙を持たせたまま、おれはあたりを見廻した。俺たちが遊んでいた場所は、近所にあった会社の寮が建っていた跡地で、蛙を圧し潰すのに適当なブロックの欠けぐらいなら、あたりにごろごろしていた。前方には、一段下がって、まだ水が引かれていない苗代が広がっている。
 重さもちょうどほどよい煉瓦を一つ手に取ると、おれは稔に、蛙をその下の苗代に投げつけるよう指示した。おれの命に従って、稔が田に蛙を投げつけると、おれは手にした煉瓦を頭上に振り上げて、そのまっ白い蛙に狙いを定めた。
 振りおろす。狙いが外れた。すぐさま跳び下りて、もう一度煉瓦を手にして、さらに上げた。その白い蛙は、今度はこのおれの足下にいる。もう狙いを外すことはない。おれは狙いすますと、いま一度その蛙を上から見下ろした。その白い蛙の周りに紅い血の輪の広がってゆく様子をイメージした。――その時だ。おれの左がわ頭頂部に鋭い痛みがはしったのは…。
 おれは頭を押えてその場にしゃがみ込んだ。手を見た。真っ赤だった。血に汚れたおれの掌は真っ赤だった。自分の血に穢れたそのおれのもろ手には、いっぱいの皺が纏わり付いていた。あとで冷静に見れば、それは髪の毛だったのだが、その時、おれは思わず自分の脳が飛び出して来たのだと思った。これはえらい事になってしまった――。
 家中を右往左往する父と母の顔がおれの脳裡を駆け巡った。
 膝さきには、角に血しぶきの散った跡のある煉瓦が転がっていた。おれは、自らの背を振り仰いだ。するとそこには、稔が仁王立ちになってまっ青な顔をしておれを見下していた。そのときに稔が振り絞るように発した声の調子は、今でもこの耳の奥に残っている。淳ちゃん、大丈夫か…、ごめんよ、ごめんよ、おれ、蛙をな……崩れてどんどん泣き顔になってゆくになってゆく稔の向う側であのとき輝いていた丸い太陽は、とても眩しかった……
 あっ、今また烏が鳴いて飛んで往った。今度は、…二羽か。
 でも、俺はあのころ、どうしてあんなことをしたんだろう、あんな事を、どうして。ごめんよ…、ほんとうにごめんよ、心から……
 あっ、幸惠が来る。俺を起こしに来る――。
ちぇっ、こんなに濡れちまった頬、どうしたらいいんだ!

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