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【エッセイ】あなたもですか

 数年前に体調を崩し、近所だからという理由で駅前の内科に行ったら、こちらからの症状の説明もそこそこに薬を処方され、以来、薬を貰うために月に一回通院することとなった。
 せっかくの土曜日に早く起きて医者に行くわけで、医者が済んだあとは駅前の書店に寄ることを楽しみにしている。何がしかの楽しみでもないと、週末の朝に気持ちが起きてこないというわけだ。
 こちらの書店は先の医者よりもずっと以前から通っているが、また最近、歴史書の棚を小さくし、いっそう頼りないものになった。一年前は哲学書の棚を思い切って削り、その前は文学書の単行本の枠をますます狭いものに変えている。今では足繁く通った目当ての一角は痩せ細った寒々しい姿となり、近頃は読みたいと思える本と出会える機会もめっきり減ってしまった。
 その朝は私が漁っている棚の横で、目的の本を探しているご婦人がいた。通り掛かった若い店員に、彼女は孔子のことを尋ねていたが、店員の受け答えは「ここに出ているだけになります」のひと言で、本棚よろしくそっけないものだった。とぼとぼと立ち去る婦人の足取りからは、枯れ葉の音が聞こえて来るようだった。どうやら店員の心の中からも、良書は先細りしているらしい。
 書店に寄ったあと、散髪屋にまで足を伸ばした。私は元来、髭も丁寧に剃ってくれて、肩もよくほぐしてくれる寛いだ時間が持てる床屋が好きだ。最近はそうした店も少なくなって、どこも価格競争で疲れている様子がありありだ。帰る方角から逆にはなるが、以前からちょっと目を付けていた床屋があって、思い切って足を延ばしてみることにした。
 店に入ると中から声は掛からず、見るとスタッフは一人だけで、「そこに名前を」とシャンプーの手を動かしながら、聞き取りにくいか細い声で彼に言われた。カウンターに置かれた来客メモに、自分で氏名と希望するメニューに丸を付けて、ひび割れの目立つ黒いソファに座った。
 待合いに新聞や雑誌は置かれておらず、マンガの本しかない。だから、手に取るものとてない。手持無沙汰を小一時間ほど待って、順番が来て案内された席に腰をおろすと、目の前の白い洗面台に髪の毛がべったりと残っていた。
 件の医者に話を戻すと、最近、手の関節の痛みを世間話のように話したところ、内科であるのに思いがけず指に塗るゲルを処方してくれた。それから何度か処方してもらい、医者が打つパソコンの私のカルテにも、その薬の名前は記載されている。
 その朝、何か月ぶりかで同じ薬を頼んだところ、医者から「どうしたの、頭痛でもするの」と訊かれた。そうして、その日は木枯らしが吹く道すがら、私は医者から本屋、そして床屋へと、何度も同じ言葉を心の中で繰り返す破目となった。あなたもですか

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