バス・みんながやってるから・学童 〜ノートブック3〜

私が乗るバス停は駅に向かう通りの起点にあって、朝なんかは複数のバス会社のバスがつぎつぎに乗り入れてくる。だから2台3台がだんごになってくることも珍しくない。というよりも、特定の時間に限らず、8分に1回くらいは、2分くらいの幅で、後続のバスが来るのが普通のことである。

だから、最初に来たバスが混んでいたら、次のバスを待つと大抵すいている。すいてなくても通路に1人立つくらいのスペースは空いている。時には座れたりもする。

今日も土曜日だったけれど、複数人バス停に並んでいた。しばらくバスは来なくて、焦れて1人歩いていった。そして、バスが来た。

バスを遠目で眺めると、後ろの窓まで障害物がない場合は、風景が見える。その面積が、混んでいると少ない。何となく、混んでいるか混んでないか予測できるものだ。最近は、その精度も上がってきた。

今日も混んでいるようだった。並んでいるのは6人。土曜日で、一台逃したら、また少し待つかもしれないと思いつつ、バスは近づいてきた。やはり混んでいた。予想を遥かに超えていた。だから迷わず、譲った。でも、二、三人くらいは、私と一緒に後続バスを待つものだと思っていた。

しかし、そのほとんど立つ面積もないバスに6人が乗っていった。内側に詰めて、乗りづらそうにしている最中、後続バスが見えた。遠目で見ると明らかにすいていた。来ますよ、と声をかけようとしたけれど、ドアが閉まるところだった。私はすいているバスに乗り込み、次のバス停で座ることができた。

別に自分がクレバーなことを自慢したいわけではない。また、今日の乗客はイレギュラーにバスに乗る人で、この路線のクセを知らないだけかもしれない。ただ思うのは、先に来たものに乗り込まないといけないという強迫観念のようなものが人にはあるのかもしれない、ということだ。

待つ、や、見送るということは、意外に難しいことだ。次のチャンスは来ないかもしれない、という不安に満たされる。不動産でも、今が買い時ですよ、つぎに来たら取られちゃいますよ、と言われると、そうかもしれないと思ってしまう。

ディズニーシーの駐車場入り口もそうだ。知らないのであれば仕方ないが、左側に並んでしまう人の習性なのか、内側の道路に長蛇の列をなしている場合が多いが、外側から抜かしていって、料金所の大外が空いているなんてことも結構ある。これは観察やパターン認識をしようとせずに、並んでいる人のところに従順に並んでしまうことでしてしまう失敗だろう。

先に来たものに乗り込まなければいけない、今を見送ると次のチャンスはないかもしれない、並んでいるところに並んでおこう。こうした思考のクセというものから、自分も完全に逃れているわけではないが、それをすることで損をしていることはあろうと思う。もちろん、その判断が失敗だったこともある。

これはただの自慢のように聞こえるかもしれないけれども、学童の役員や係を受けてほしいという要望に対して、頑なに断ろうとする人はどうしてなのか、ということを考える過程で思いついたことだ。

そして、ボランティアのような形で役員や係をやる、ことで成り立っている仕組みって、今後も成り立つのだろうか、という問いでもある。そして、そんな仕組みで成り立っていた過去とは一体なんだったのだろうか、と。

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