【第2稿】ウィトゲンシュタインの助言 6

6ー1 小室さんの話

小室さんは、中堅の公立高校に進学した。

親が、ここらの大地主だったこともあって、親戚も多く近隣に住んでいた。同じ苗字の家であれば、たいていはどこかでつながる家系だったので、みなでそれなりに助け合って生きることができた。

不動産売買と建設関連の会社をやっている人が親戚に多かったので、自分もいずれはそうした仕事を手伝うんだろうと思って、高校を卒業したあと、地元の短大に進学した。

短大卒業後、通信機器の会社にしばらくつとめていた。同期や後輩の女性たちが寿退社していくのを見ながら仕事を続けていた。

男性デュオのミュージシャンのファンで、かかさずライブには行っていた。

その男性デュオは、地味な存在であった。だからファンの熱狂がテレビで報道されるわけではないのだが、そんなミュージシャンたちにも一定数のコアなファンがいる。

「自分はその一人だったと思う」と小室さんは言った。

「ライブに行ってはグッズを買い込み、私の部屋は、その男性デュオミュージシャンのグッズが並んでいる。同じCDもいくつか詰まれている。聴く用、保存用、サイン用、誰かにあげる用」。小室さんは幸福そうに微笑んだ。

30になるかならないかで長く勤めていた会社も辞め、親戚の会社で事務の仕事をしている。役員として名を連ねてもいる。また、実家の資金運用の一部も任されている。

結婚も考えたが、踏ん切りがつかなかった。結婚相手の家に入ることは、今の自由な生活を捨てることになるので、わりに合わないと思った。お見合いした男性も、興信所の調査で、いかがわしいところに通った過去があると聞いて断った。相手の男性と、男性の両親を親戚が説得しての見合いだったこともあって、断ったときは親戚中の顔をつぶしたが、後悔してはいない。

SNSは婚活アプリをやってみようとしたときに、たまたま登録した。すると、昔の同級生がいて、中学校のときの楽しい記憶がよみがえった。あの頃は、何も考えなくて良かった。婚活アプリは面倒ですぐに退会した。SNSだけ続けている。

親戚に不登校の男児がいた。同じ小学校の同級生だったが、違う中学校に行った。不登校の原因が、人間関係にあると思ったからだ。その男児の問題は、大人になっても続いている。親戚一同が時折集まって議論をするくらいには。

SNSでコメントし合っていると、その男児のことを聞かれる時があった。

「毅(つよし)のことだけど、ナカさん知ってる?ナカさんの小学校から半分くらいの人数が行く、ウチと違う中学校に行ってた。行ってたというか、不登校のまま在籍。その後は、近所をふらふらしてる。」

毅は色んな親戚のところに顔を出しては小銭をせびってる。いい年して困る。だから聞かれても、何となく誤魔化すようになった。

同窓会は楽しみ。

「ノリちゃん(榊原さん)とも、久しぶりに会えたし。弘海くんもあんまり変わってないし。ちょっと太ったかな。ナカさんも、細かいところまで覚えていてすごいね。全然覚えていないよ、あたし。」

小室さんとは同じクラスになったことはない。しかし、生徒会で何回か一緒に仕事をしたことがある。小柄でボーイッシュでサッパリした人という印象が強い。表情がクルクルと変わる不思議な人だった。

今もその印象は変わらない。熱中したり、役割を与えられたりしている時には、有能な人だろうと思う。今はきっと退屈しているに違いない。

「なぜ、今回同窓会をすることに、これほど積極的なの?」

「やることがないから、かなあ」小室さんは、どこか言い淀んだ。

6-2 照本の話

照本は、本人曰く誰も行かないような「底辺校に入学」した。

そんな「底辺校」だったところが今は名前が変わって、意外な人気校になっているらしい。時代は変わるものだ、と照本は言った。

自分が卒業した高校はもう無くなってしまったので、高校生だったことも覚えていない。ただ、あの時代の雰囲気はハッキリと覚えている。

「底辺校」には、不良と無気力な男が半々くらいいた。

自分は喧嘩っぱやかったが、本物の不良になるには度胸がなさ過ぎた。早々に上級生にシメられて、反抗する気力を失った。

しかし、無気力な連中ともうまく付き合えなかった。

だから野球部に入学した。強いチームではなかったけれども、部活をやっている間は、色々なことを忘れられた。短期的な目標で、自分の空虚さを埋めていたんだと思う。

部活の仲間ともうまくやっていた。

就職か、進学か、悩んだ。進学と言っても、自分は専門学校を考えていた。服飾系の専門学校に行ったけれど、いまいちノリに合わず、そこを辞めてまだ珍しかったロボットが握る回転すし屋でアルバイトをはじめ、そこでの誘いを受け社員になった。

景気は良かった。彼女もできた。

「俺は、保育園や小中学校のころは、カッとして手が出てしまう人間だった。なぜかはわからない。力で訴えるタイプの人間が少なかったからかもしれない。高校に入って、暴力に訴えることを自分でセーブした。それはできた。本物の不良たちは徒党を組んでいるから手を出せなかったし、無気力な連中は、自分を挑発してくることもなかったからだ。本物の不良と、無気力な連中に対して、俺はそんなんじゃないと示そうとして、真面目さの価値を理解したという側面があると思う。」

回転すし屋の店長になってからは、理不尽なクレームも多かったが、それが自分のメンタルを鍛えてくれた。海外に行ってやってみないかとオーナーに言われて少し迷ったが、ちょうど彼女と別れた時期でとくに心残りもなかったから、クアラルンプールでロボットがつくる回転すし屋の店長をやった。開始当初はなかなか売り上げが上がらなかったが、ある時期からマレーシアの経済状況が好転して、自力で高級なすし屋も出すことができた。

ただ、両親の介護が必要という連絡を受け、店を売却し、こちらに戻ってきた。マレーシアの富裕層の投資家が高値で買ってくれた。売却で得た資産は、実はかなりの額になっているという。遊んでいるのもつまらないので、週3回介護施設のアルバイトをしている。両親をホームに入れて、時々見舞いながら、それなりにゆるく暮らしている。

SNSはクアラルンプールにいるときに始めた。日本の状況をそれなりに知りたかったからだ。

「榊原さんを発見したときは、少し胸が熱くなった。自分もいつまでも榊原さんのことを思い続けていたわけではない。ただ、走り続けることをやめてふと辺りを見渡した時に、榊原さんがいたというだけのことだ。付き合いたいとか、結婚したいとか、そういうことは自分も思っていない。友達付き合いが出来ればいいと思っている。だから弱みも何でも話すことができる。それが逆に榊原さんの信用を生み出しているはずだ。さすがに、社会に揉まれて、その程度の処世術は自分にも身についたよ。」

同窓会は楽しみだ。自分のことを今でもヤンチャな子だと思っている人もいるんじゃないか。自分が今、どんな風になっているのかを話したい。

「ナカさんは、病院づとめだったかもしれないけど、雇われだろ?大学病院の医者の給料なんて、世間の人が考えるほど高いわけじゃないよね。税金で持っていかれて、それほど残らないのは知ってる。何が人生なのかわからないよね。」

照本は、心底乱暴者だったわけではない。私は保育園の時に一緒だった。情誼に厚いところもあった。それは、多くの人がその人を見捨てたと照本が認識したときに発動される心持ちだった。他人との差を示し、その場で少数派になりたいという承認欲求に突き動かされていたのが照本ではなかったか。

場に功利的な人間が多い時には、非功利的になり、真面目なやつが多い場では、不真面目になる。いわゆる「成功者」になって良かったと思う。

「しかしなぜ、同窓会に?」

「それはもちろん榊原さんともっと話したいからだ。もちろん、昔の同級生がどうなっているのかも知りたい」と、照本は言った。

6-3 志村さんの話

志村さんは、県でもちょっと毛色の変わった進学校にすすんだ。

その進学校は大学みたいに自分でカリキュラムを決められる自由さがあった。実験的なことを導入する高校だった。

中学校入学後に入った剣道部のあまりにもダレた雰囲気に愛想をつかして、女子サッカー部に入りなおした。

当時は珍しい部活だった。

高校でも続けたかったが、そもそも女子サッカー部自体がなかった。クラブチームでやるほど上手だったわけでもない。

だから高校では、ソフトボール部に入った。

それが面白くなりすぎて、大学は体育大学に進んだ。そこでもソフトボール部に所属した。寮に入って、部を謳歌した。

大学を卒業したあと、県内の中学の体育の先生になった。

当初の理想と現実はかけ離れていた。

生活指導は自分たちの頃のようにはいかなかった。

生徒たちは、陰に隠れたり、Web内だったり、教師に隠れて色々やっているし、保護者からのクレーム対応も格段に多くなった。

部活の顧問は楽しかったけれど、残業ばかりで何もできない日々が続いた。

ある学校で同僚だった男性と結婚した。順調な結婚生活に思えた。しかし、あるとき家を出て職場にいくのかと思ったら実家に戻ってしまい、家に二度と戻ってくることはなかった。

心を病んで、実家で療養しているという。

「あなたとはもう会えないと言っている。何があったかわからないけれど、別れてほしい」と義母に言われて、ショックを受けた。

「私は、もしかしたら彼に対してつらくあたっていたかもしれない。プレッシャーをかけ続けていたかもしれない。無言の。私が頑張れば頑張るほど、彼は追い詰められていったのかもしれない。」と志村さんは寂しく言った。

やがて教師を辞めた。

近所にあった、自然食をうたったカフェでアルバイトをし始めた。

そこで今の夫と出会った。カメラマンで、雑誌に掲載する料理の写真を撮影するために、店に来ていた人だった。

付き合ってしばらくして子どもができた。すぐに結婚した。

アパートを借りて住んでいたが、音がうるさいという苦情が多く来て、引っ越せるところを探した。

子どもの教育環境として、あまりにせせこましい首都圏はふさわしくないと思い、群馬と新潟の県境に引っ越した。古い民家を改造して、近所の人たちと協力して、今は山小屋風カフェをやっている。

夏は登山、冬はスキーができるし、子どもたちものびのびと生活していて、充実している。

SNSは昔からやっている。

「時々、ナカさんもメッセージをくれたよね。」

鬼頭や照本くんにメッセージをもらったり、日野春くんにコメントしたりした。

同窓会は楽しみ。

越門(こしかど、あだ名はゴエモン、中学の同級生で、志村さんとは3年間同じクラスだった)にも、「昔好きだった」とか言われたけど、あたしがそんなにモテていた自覚はない。

「ぽっちゃりしていたし、天パだし。」

「しかしなぜ、志村さんは今回わざわざ群馬新潟の県境から同窓会に?」

「たまたま、かな」志村さんはらしくないことを言った。

志村さんは、もしかしたら鬼頭に何か含むところがあるのかもしれないと思った。

少しまとめよう。ここにいない人々も含めると、次のようになる。

榊原、鬼頭、小室、毅、(越門)がA小学校出身。
弘海、私、池山、(置傘)、(カエル)がB小学校出身。
照本、志村、黒岩、神部、(日野春)がC小学校出身。

私はもともとC小学校の学区に住んでいたので、照本と保育園が同じだった。照本は榊原を好み、志村は鬼頭を好み、弘海と小室がかつては好い仲で、現在は弘海と神部が結ばれている。

神部と、黒岩-池山グループが「喧嘩」し、そこに榊原が巻き込まれている。弘海は、このことを知っているのか否か。榊原の証言通りであれば、神部と黒岩の「喧嘩」だし、実は榊原も加担していましたということであれば、「いじめ」だろう。

小室は毅のことがあって、同級生と深く関われずにいるし、鬼頭はマイペースだ。弘海も実は小室と旧交を温めたがっている。

当時人口七万人程度の市町村のほんの一部の学区の小中学生の同学年で、いつまでも記憶されているだけではなく、こだわり続けられているような人間関係の網目が出来上がるなんて、不思議というべきか異様というべきかわからない。

共通していることは、同じ小学校出身者同士が、中学校で惹かれ合うことは(少)ないという事実だ。まるで『親族の基本構造』のようだ。

私は、どうでもいい発見で得意になり、気持ちがよくなって眠りについた。

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