奴の本領 〜ある社の人間模様10〜

朝からどうでもいい会議がある。

この会議、飯山と一緒にやってるプロジェクトで、もうやめたいと思っている。上の判断でも止める方向に進みたいので、利害は一致しているのに、飯山だけがそれをやりたがっている。

飯山は理念が好きだ。理念を述べることに達者である。終わりまで言わないと話をやめないので、たいてい演説風になる。

飯山も日本史の人なので、根は似ているところがあると思うのだが、奴は古代史、未熟者は近代史であり、そこには大きな溝がある。

理念が大事で、良き理念ならば「自ずと」民草はそれに感化されるはず、と思っている節がある。

この「自ずと」がミソで、近代史は理念を広めるためには説得のメディアが多方面に必要となる、と考えるので、「自ずと」は想定しない。「作為」によってことを起こすのが近代である。

だからなのか、なぜか飯山は理念の彫琢に躍起になり、それをどう説得して、実施するかということまで考えたがらない。

飯山に昔「なんで、平安じゃなくて、奈良なのか?」と聞いたら、荘園とか寺社とか院とか中間勢力が入り込むのが得意じゃない、と答えた。天皇の威光が、自ずと民衆を照らしていく時代がわかりやすくていいそうだ。なるほど公地公民が好きということね、と納得した。

いままでの会議でも、せっかくだから、このタイミングで廃止しましょう、と未熟者は述べた。未熟者が、一応責任者だからだ。その場では飯山は黙って聞いている。しかし、会議が終わった後、裁量を持っている人のところに行って、理念を語る。長い。そして、なぜか経営判断の会議では存続が決定している。これの繰り返しである。

じゃあ、未熟者を外して、飯山を責任者にすればいいじゃない、と言ってみるが、これは未熟者も偉そうに言ってしまうが、本音としては雑すぎて任せられない、と思う。また、飯山は適材適所を主張し、「サッカー選手に野球やれって言うようなものですよ」と不満を述べるが、未熟者からすると一時的なサイドチェンジくらいのように見える。オシムジャパンならできるだろうと思った。

スペシャリストが集まって、何かを作って、売る時代は変容している。未知のものをなんとか「ブリコラージュ」で形にしていくことが求められている時代であると思う。飯山の語る理念もわからないわけではないが、平等という理念が「自ずと」受け入れられていったわけではない近代史をどう思う?と聞きたくなってしまう。

結果、存続することになった。

あーあ、と思うが多少の手当も出るので、我慢しようと思う。正直、雀の涙程度の手当に、それなりの時間と集中力をかけるのは、無駄なような気もするが、仕方がない。

飯山は、「無駄なものは何もないですよ」という。未熟者もそう思う。「失敗も無駄じゃないし、かけた時間は身を助けてくれますよ」と上機嫌である。そうだろう、尻拭いは全部こっちが見えないようにやってるんだから、と思うが、微妙な笑みを返すだけにしておく。

「この世界、無駄なもの、無意味なものなんか何もない」という美しい理念がある。ライプニッツの最善世界論を薄めて飲みやすくしたような人生観であり、アーサー・O・ラブジョイの「世界の大いなる連鎖」を曲解して綺麗にまとめなおしたような世界観である。未熟者も、でも、大きな意味ではそう思うし、そうであってほしい。

しかし、飯山がこの理念を寿ぐと、なぜイラッとしてしまうのだろう、と考えてみた。それはどこかやってるフリの言い訳めいたように聞けてしまうからではないのか。

いずれにしても、現場からの声、さらに上の政府筋からの変更事案、この二つを勘案しながらやらなければならないはずなのに、飯山の声は軽い。

「何か、具体例を見たいっすね」

お前が探して来いよ、と言いたくなる。

それを探して、要点をまとめて、メンバーにわかりやすく説明して、理解してもらうまでが「リーダー」の役割みたいになっているが、これで手当が一緒であることに若干いら立ちを感じる。

具体例なんかないから、あたふたしているんだろうが、と思うが、もう知らない。


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