【第2稿】ウィトゲンシュタインの助言 2

1時間半ほど電車に揺られて、かつて私が暮らしていた郊外の駅に着いた。都市部に寄生したベッドタウンのそっけなさが駅前の表情をかたちづくっている。すぐに都心に出ようと思えば出られるこの土地だから、人は移動もせず住み続けようと思うのだろうか。それとも、本当に居心地がいいのだろうか。地価は、ゆっくりと上がり続けている。

私がかつて住んでいた土地は、近所の床屋さんの息子の家が建てられたという。あの狭い土地にどんな家が建てられたのか少しだけ気になり、キャリーケースを転がしながら見にいった。細長い三階建ての平凡な家だった。あの頃も似たような建売の住宅が並んでいる区画だったが、新しい家が建っても変わらない。

歩きながらSNSを確認すると、同窓会の主催と思われる面々は、前夜祭どころか、前々夜祭の予定も組んでいた。そこに顔を出してみるか。臆面もなく大胆な気持ちになっていた。予期せぬ闖入者として、歓迎されるか、邪魔者になるか。そんな迷いも一つの快感だった。

ホテルは、街はずれにあった。この街は、中山道に沿って縦長に形成されている。かつての宿場町のなごりをとどめている。ホテルは不思議と長続きしていた。竣工後、20年にもなるのではないか。駅から異様に遠いのに、経営が成り立っているのは不思議だ。駅前に同時期に出来たホテルは、すぐに経営難で潰れたというのに。誰が利用するのかわからない。ロビーもレストランも部屋も、極めて普通。この普通さが、取り立てて他人に誇るべきもののない街と共振しているのかもしれない。

前々夜祭の開始まで、2時間ほど空きがある。私は旅人の眼で、かつての故郷を眺めてみることにした。

荒川と併行して伸びる中山道の間の土地に、長細くできた宿場町。平安時代に天皇から与えられた土地が名前の由来だと、子どものころに教わった。宿場町の通りの周囲に格式の高い家々が並び、そこが一番の高地になっている。宿場町の通りと併行して東に一本やや大きめの街道と小さな川が並走している。そこには市役所などの公的施設が並ぶ。そして、雨が降ると小さな川が氾濫して、周囲は水に覆われる。

宿場町の通りの北のはずれには由緒ある神社があり、南のはずれには庚申塚がある。そこを超えると農村地帯で、1970年代以降、住宅も増えて、小学校も建てられたが、旧来の大地主と新興の住人が混在する土地だ。この小学校から半分、そして、宿場町の大通りの南半分を収容する小学校の全員と、北半分を収容する小学校の半分が、私のいた中学校へと進学する。

1980年代に団塊ジュニアが小学生になったころ、中学校のキャパシティは限界に達し、新たな中学校が建てられ、宿場町の大通りの南半分を収容する小学校の三分の一が、その新中学校へ行った。農村地帯の小学校からも、幾人かはそちらへいった。「向こう側」と言われていた大幹線道路の東側は、子ども心にも文明の向こう側のイメージがあったのである。

目抜き通りは古びてはいるが変わらない。古いお屋敷が意外と残っている。私が生まれた時に住んでいた借家の近くにあった庭付きの豪邸も、そのままあった。もちろん、かつてゲームソフトを売っていた店舗は、今では発酵食品を売る店に変わっている。コンビニが入っていたところはヘルパーさんを派遣する業者に代わった。ソフトは代われどもハードは変わらない。そんな変わらない町並みの中に、新しい蕎麦屋が出来ていた。

これがあの弘海くんの。弘海くんは、同窓会の主催者の一人だ。彼は、中学生のときに長期欠席をしていたPTA会長の娘と所帯を持つ中で蕎麦屋を開店した。私はそれを日野春と一度会ったときに聞かされたように記憶している。日野春の母親は、この地元の顔役なので、同級生たちの動向が、日野春の元へと入って来ていたのだろう。例えば、部活の友人だった浅田が、二人の子どもを残し、大幹線道路を渡ろうとしてダンプカーの左折に巻き込まれて亡くなったことなども、日野春が教えてくれた。洪水を繰り返す小さな川も、何人もの人を死なせている大幹線道路も、忌まわしい何かの象徴に感じられた。その忌まわしさの間の細長い土地で、私は幼少期を過ごしたのである。

狭い空間に多くの子どもたちが過ごしていた。子どもたちは皆、大人になってどこへいったのか。日野春の好きだった五楼さんの豪邸も古びつつも存在している。五楼さんは女優のように美しい顔立ちだったが、下劣な品性の持ち主だった。性格が悪すぎて、人は彼女を遠ざけた。日野春はそれでも彼女と結ばれることはなかった。この古びた豪邸の中で、五楼さんは美しい顔と攻撃的な性格を持て余しながら、今も暮らしているのだろうか。

通りにはほとんど人がいなかった。ロードサイドに客をとられ、かつての目抜き通りは、閑散としている。歩いているのは私一人。夕方なのに、子どもの姿もない。あんなにいて、縦横に遊んでいた子どもたちはどこにいったのか。少子化だけが問題ではあるまい。地価も、人口も、統計上は増えているこの街で、子どもの姿が見当たらないのは、どこかおかしい。

散歩を終え、ホテルに戻り、必要なものだけをトートバッグに入れなおして、前々夜祭会場へと向かった。これも懐かしい居酒屋だ。私の旧家の斜め前にあった家の娘たち二人が、両親の離婚を機に始めた居酒屋。あそこの家は方位のせいで不和が生じやすいから私は買わなかったのよ、と事あるごとに言っていたことを思い出す。

娘たち二人は、聖子ちゃんカットで、八重歯がキュートだった。恋を知る前の印象だが、徐々にレディースのようなメイクで家を出入りし始めて、子どもながらに心配したものである。そんな姉妹が夢見た居酒屋。変化の乏しいこの街にも、かすかな夢はある。扉を開けて、中に入った。

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