【第2稿】ウィトゲンシュタインの助言 13

エピローグ

陽射しが眩しく体をよじらせると打ち身のようなかしいだ痛みが走りぬけた。滑稽な大騒ぎから、誰もいない家に帰ってきて、風呂に入って横になったら、すぐに寝てしまったらしい。アドレナリンが出ていたからなのか、帰宅時はどこも痛くはなかったはずである。

せっかくの同窓会、もっと大勢と率直に色々なことを話すべきだったと後悔した。かといって定型的な挨拶から始めるのはやはり煩わしい。窓の外では相変わらず建築現場が慌ただしく仕事をしている。ニヤニヤしていた若者も今日は真剣な顔つきで働いている。

35年ぶりの同窓会は、わだかまりを残したまま、突発的な出来事で早めにお開きになった。小説になるネタもあまりなかったので、この顛末を書き記して、娘に見せようと思う。ロマンスの幻影の感傷か、信仰が絡んだ真相か。

神部さんのことが好きだった、という結末が最も収まりのいいものなのかもしれないが、当時の私は神部さんのことが本当に「好き」だったのだろうか。森から教わった定義に則せば、「好き」ではなかったかもしれない。この歳になってしまうと、かつて神部さんのことが好きだったかどうかは正直な話どちらでもいい。

確かに長い時間隣に座っていた分、同じ時間を共有していたし、話す必要もない自分のことを、贈り物のように伝えたという事実はある。その量は他の人よりも多いのは間違いない。伝えた情報の量が多かったという事実が、かつて好きであったことの根拠だとしたら、確かに私は神部さんのことを好きだったのかもしれない。

しかし、本当にそんな事実があったのだろうか。35年前の記憶など、全くあてにならない。今回の同窓会だって、周りに人がいなくなってみれば、一夜の夢、砂の幻、現実感はどこにもない。

ジッパ・ディ・ドゥ・ダー
ジッパ・ディ・エイ!

あの時聞いた言葉も、記憶違い、覚え間違い、今夜の夢の中の言葉だったかもしれない。私がただ記憶を書き換えているだけかもしれない。毅も暴れていないし、前々夜祭すら開かれていない。そんな現実もありうる。50代間際になってSNSで呼びかけられて、開かれる中学校の同窓会に何人が行く?記憶の中の小室さんの家に、実際に行ってみたら廃屋だけが残されているなんていうオチだってありうるだろう?

「ジッパディドゥダージッパディエー」

いや、それでも体が痛いという事実がある以上、昨日の出来事は本物だ。暴れた毅に突進したことだけは、おそらく事実と言えるのだろう。まだ疲れが残っている。もう少し寝よう。おやすみなさい。

「ジッパディドゥダージッパディエー…」

「ジッパディドゥダー…」

(了)

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