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「今村大将と昭和天皇の接点 その9」/第八方面軍司令官としてガダルカナル戦線に関する、勅語を受ける(ガダルカナルの撤退 その1)

『昭和天皇実録』から、今村均との接点(リマインド)

『昭和天皇実録』から今村均を索引からひきますと、
1)昭和十一年四月 関東軍参謀副長(少将)
2・26事件後陸軍の師団長・軍司令官会議に関東軍から派遣(参謀副長の任)され、謁を賜る。
2)昭和十二年四月 関東軍参謀副長
陸軍の師団長・軍司令官会議に関東軍から派遣(参謀副長の任)され、謁を賜る。
3)昭和十三年十一月 第五師団長(中将)
第五師団長に任命され、昭和天皇より親補される。
4)昭和十五年四月 教育総監部本部長
第五師団長として南寧の大激戦を勝利し、嘉尚の言葉を賜る。
5)昭和十六年六月 第二十三軍司令官
第二十三軍司令官に任命され、昭和天皇より親補される。
6)昭和十六年六月 第二十三軍司令官
第二十三軍司令官として、昭和天皇より勅語を賜る。
7)昭和十七年十一月 第八方面軍司令官
前第十六軍司令官としての軍状の奏上を行い、第八方面軍司令官として親補され、勅語を賜る。
8)昭和十八年一月 第八方面軍司令官
昭和天皇より、山本五十六連合艦隊司令長官とともに南西太平洋方面の闘いに対する嘉尚と、激励の勅語を賜る。
9)昭和十八年一月 第八方面軍司令官
上記勅語に対する奉答を送信し、杉山参謀総長より昭和天皇に奏上される。

これまでの記事では7)補足

これまでの記事では7)までの出来事を記してきました。
前記事は第十六軍司令官としての、ジャワ統治のまとめ的な記事でした。
これを昭和天皇に軍状を奏上したあと、第八方面軍司令官に親補され、勅語を賜われます。
勅語は、第十六軍司令官としてよく働いた、今また多くの困難を抱える南太平洋方面の闘いに働いてもらわなければならない、しっかりやれ、と言う様な意味で書かれています。
その時のことを「今村均回顧録」では、
「『南太平洋方面よりする敵の反攻は、国家の興廃に、甚大の影響を有する。速やかに、戦勢を挽回し敵を撃攘せよ』との勅語を拝した。
憂色をただよわせ給える玉顔を拝し、なんとしてでも、任務を完遂しなければならない決意を堅くした。」
と書いている。

8)、9)昭和十八年一月 第八方面軍司令官

このことは、「今村均回顧録」に触れられていたかと思っていましたが、いま見当たりません。また見つけ直したら改訂します。

事項的は、
・昭和天皇より、山本五十六連合艦隊司令長官とともに南西太平洋方面の闘いに対する嘉尚と、激励の勅語を賜る。
・上記勅語に対する奉答を送信し、杉山参謀総長より昭和天皇に奏上される。
の二項目で、昭和天皇実録第九巻の4頁、5頁に記載されていて、直接の拝謁を賜ったわけでなく(実際今村さんはラバウルで指揮をとっており)、電報で勅語を受け取り、電報で奉答を送っています。

そして前者は、南太平洋方面の戦略転換、1月4日のガダルカナルからの撤退命令に付随しての勅語です。
後者は、その直後に対する奉答と言うことになります。

ガダルカナルの撤退

ガダルカナルの撤退は奇跡的に残存者のほとんどを撤退、救うことができたものです。
ガダルカナルにはすでにこの時点で第十七軍の三万の将兵が投入され、敵へ以下に斃れたものが五千、餓死したものが一万五千、残った一万の将兵のみを撤退させるということだったのです(その残った一万も餓えに苦しんで撤退行さえ自立して行うことが危ぶまれる栄養失調の将兵でした)。
ただ過半を失ったとは言え、残った一万の将兵を是非とも救わなければならないという任務だったわけです。

1月4日の大本営の撤退命令後、第八方面軍は、大本営から転職してきた井本熊男参謀を方面軍参謀に加え、杉田参謀と有末大佐作戦課長をはじめとする作戦課で練り上げたと言います。

続きは、次号ガダルカナル撤退その2で記すこととします。


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