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「今村大将と昭和天皇の接点 その11:番外編」/聖旨の伝達

これまでのこのシリース「今村大将と昭和天皇の接点 その1~10」は「昭和天皇実録」に掲載されている事柄、タイミングでの今村大将の事績を記してきました。

番外編/「今村均回顧録」の拾い物

「今村均回顧録」には、侍従武官が師団司令部、軍司令部などに訪れ、聖旨伝達がなされるということが良く書かれています。
このような、天皇陛下からの勅語が出先の軍に下されるということは、重要な闘いの場合には有ったことのようです。
そういう場面を以下、私が気付いたところを拾い上げてみました。これを番外編として、掲載します。

1)昭和十三(1938)年十一月 第五師団長(中将)となってから間もないころのことです。第五師団駐屯地である、南支仏山に着任後、師団司令部に、聖旨伝達の四出井侍従武官を向かえました。
このとき、聖旨伝達と答辞を終えて、司令部と四出井侍従武官との会食がもたれますが、巧まずして師団内のユーモラスなエピソードを侍従武官に伝えることになりました。それは、
師団内の連隊のある兵士に故郷から、養命酒の瓶が慰問品として送られてきました。それをお酒と勘違いした兵士と戦友たちが飲んでしまいます。案の定腹痛を起こし軍医はコレラかと恐れますが、後送された慰問の送り主の兵士の父親からの手紙には、銃のみがき油を送ったと書いてあったということです。元気づけの薬=お酒だと勘違いしまずいのを我慢して飲んだ結果の腹痛だったというわけです。
この話ももしかしたら、四出井武官から昭和天皇の耳に伝えられていたのかもしれません。

2)昭和十四(1939)年12月、第五師団が、南寧の大激戦へ突入したころです。
これは援蒋(米英から蒋介石軍への物資援助)ルートを扼すための一大作戦ですから、文字通り激励の聖旨が下ったということなのでしょう。
12月15日、横山侍従武官が聖旨を第五師団及び近在の台湾混成旅団へ伝達に来たというものです。

3)昭和十八(1943)年8月、ガダルカナル撤退も済み、ラバウルでの戦略的持久体制を構築中のところ第八方面軍司令部に、坪島少将侍従武官が聖旨を伝達に来ました。
このときも、ユーモラスなエピソードが昭和天皇に伝わった可能性が有るようです。
坪島侍従武官が来着した当時、方面軍司令部が使っていた防空壕にちょっとした異音が発生していて、よくよく突き止めてみると、防空壕の屋根裏に、大きな錦蛇の家族が七匹棲みついていたことがわかったということです。
軍では、タンパク質不足から多くは食料にされてようですが、今村軍司令官の寝床の直上に錦蛇が家族で棲んでいたということがたまたま侍従武官が来在しているときにわかったということで、どうやら坪島侍従武官が昭和天皇にこのエピソードを伝えたらしいのです。
そのことを、中央の田辺参謀次長がその後今村軍司令官への手紙中に知らせてきたということが「回顧録」のもと本である、自由アジア社の「今村均大将回想録第四巻戦い終わる」中のP251に書かれています(「今村均回顧録」(芙蓉書房出版)ではその部分は割愛されています)。


以上。

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