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「三十五年越し エピローグ6」/古今亭志ん生『替り目』『火炎太鼓』と「みっちゃん、ごめんね」

〇『替り目』『火炎太鼓』 
昭和の名人の中で、最も愛されたと言っていい落語家古今亭志ん生は、中年まで貧窮のどん底を味わった(結城昌治『志ん生一代』、矢野誠一『志ん生のいる風景』)。

間から何からすべてを計算しつくしてなお毛ほどもそれを感じさせない芸を名人芸というのだろうが、文楽や圓生、上方では米朝などはまさにその名人芸で背筋にぞくっとするような感動を走らせる。

しかし志ん生は違う。計算づくでない、本性からにじみ出る人間性が表現されている、としか思われない。我々は志ん生に騙されているのだろうか。

しかしそれにしてもその前半生はあまりに悲惨である。中年まで、己で己を焦がしてしまうような業に焼かれ、それゆえに性の狷介さに苦しみ、客ばかりでなく師、先輩、同輩など仲間内にも容れられず、その精神もどん底を這いまわっていた。

またそれを支え続けた夫人りんさん(大正11年志ん生31歳の年に結婚)の苦労はどれほどのものであったか、表現を絶した世界であり、おそらく志ん生とりんさんだけにしかわからない。

『火炎太鼓』は志ん生の十八番であり、志ん生の『火炎太鼓』か、『火炎太鼓』の志ん生かと言われるほどの演目だが、その過半を構成する古女房との夫婦漫才的やり取りの中にこそ、その芸の神髄があると思う。

其処に芯があるから小ネタのくすぐりが冴えわたるのであり、悲惨な時代が背景にあることを知れば志ん生のこの落語がりんさんとの合作と言うも過言とは思われない。『火炎太鼓』こそがThe落語であり、寡聞な私はこれまでこれを超える落語に出会ったことはない。


しかしながら私にとって大好きな落語という意味では、断然、ピカイチに『替り目』だ。

『替り目』は一層濃厚に夫婦漫才的である。全盛期の志ん生は繰り返し毎年正月元旦恒例の上野鈴本での寄席中継に替り目を出していたらしく、志ん生にとっても大好きな演目だったろうし、りんさんを心から愛していたのだろう。

60代全盛期の志ん生の、りんさんへの赤裸々ともいえる“愛”の叫びである最後のサゲ、
「おどかしたら、出ていっちゃったね、
女房なればこそだ、ね、とはいうもんの、この飲んだくれの世話あ、してくれんのは。え、あいつにも随分苦労さしたよ、
あ、近所の人がそう言って、あんたんとこの奥さんは美人ですよってやんの、俺はそうだと思うね、俺によくこんないい女房が持てたなって俺は思うよ、ほんとだ、俺にもてるわきゃねえんだ、もったいねえと思うんだ、
で、そんなこといっちゃっちゃしょうがねえから、
おたふく!!なあんつってるけど、腹ん中では、あ~あ、すまないねえっつって、手を合わせて詫びてますよお、すいませんっつってねえ、、、、
あ!まだ行かないの、お前は!」


心の奥の方のヒダにビシビシと暖かく刺さってくる。

そして、そのサゲのために前半、中盤が心憎いまでに計算されて展開される替り目は、粗野の中にこそ高度に洗練された調和が奏でられる志ん生畢生の落語である。泣いて、笑って、胸熱くなる、ああ、落語って本当に素晴らしいものですねえ。


これらの落語は、昭和61年就職して月給を手にしCDプレイヤーを買って以来、平成3年に結婚する頃まで、恋に破れ愛に渇えていた私が毎晩のように子守唄代わりにCD(火炎太鼓は昭和33年11月2日NHKで放送したものの録音、替り目は昭和30年1月1日元旦上野鈴本からの寄席中継の録音)で聞き続けたものです。


〇「みっちゃん、ごめんね」
志ん生の『替り目』のサゲを言い訳にさせてもらうわけではないけれど、やっぱりちゃんと謝っておきたいと思う。

美智子さんへ

みっちゃん、ごめんね。
僕はあの時、素直な心をどこかに置き忘れて、自分しか見えていず、あなたのまごころに全く気付くことができませんでした。しかもあの時から三十五年もたって還暦になってようやくそういうあなたの優しさに気付くなんて、とんでもない馬鹿者です。
あなたは、きっとこれまでもこれからも充実した生活をおくっておられて、もう記憶にもないことなんだろうと僕は勝手に信じていますが、それでも僕自身の気持ちが済みませんので、こうして謝らせてもらいます。
みっちゃん、ほんとにごめんね。

                           佐藤より


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