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「日露戦争奉天会戦/司馬遼太郎史観に騙されないで その4:乃木さんの進言通りであれば圧勝だった奉天会戦」 乃木さんの孤独な闘いと殊勲

 奉天から、露軍が奉天からの退却を決めた3/9夕以後、東清鉄道南満州支線(のちの満鉄、南満州鉄道)を使って鉄嶺へと兵員を満載して陸続と列車が北へ向かいました。
 当然日本軍総司令部は乃木第三軍に鉄道線を破砕し、露軍を撃滅せよとの命令を発しているし、乃木軍そのものがもう目の前に迫っている鉄道線の列車を見る位置に進撃してきているので、攻撃しに行く体制でいたのです。
 
 しかし、2/27から10日以上不眠不休で北進を続け、クロパトキンによる西部方面への乃木軍(4万)の三倍の兵力、実に12万の戦力集中により、攻めては守り、攻めては守りを繰り返した乃木軍将兵には、3/9夜の段階で追撃する弾丸も将兵の体力も消耗し尽くしていました。
 当然退却する露軍は、鉄道沿線に強力な殿軍を配置しており、武器弾薬なしで立ち向かい鉄道線を破砕することはできませんでした。

 ここで思い出してもらいたいのは、2/21の奉天会戦の開始前の司令部の各軍への作戦通達会議で、乃木さんが一個師団+砲兵の加勢を要請したことです。
 この進言が受け入れられていれば、3/9夜からの戦況は著しく変わっていただろうと言われています。これに関しては、露軍を殲滅圧勝するためには理想的には乃木さん要請の倍の二個師団の増勢があったらとも言われていますが、実際の開戦前にそのような神のような予言を進言するなどは無理というものです。
 やはり、前にも記しましたように乃木さんは死を最も覚悟していたがゆえに、奉天会戦の帰趨を見通せていたと私は思います。

 少し、私見を交えて述べさせていただきますと、それは、日露戦争のこれまでの陸戦の結果から推して見えてくるものだと思っています。
 まずは、乃木さん自身が戦った要塞攻略戦の旅順の例を見て、野戦の遼陽、沙河、黒溝台を順に見ていきます。
・旅順
 全体の結果は、日本軍は(常時は5万程度)延べ13万の兵力を投入し、6万の死傷をだしましたが、5カ月弱で露軍旅順要塞を落としたということになります。露軍は4万7千の兵力とべトンで固めた非常に堅固な要塞でもって抗したわけです。
 これは要塞に3倍の兵力を要するという戦さの原則に合っています。やはり堅固な要塞を攻略するするにはそれくらいが合理的ということです。
(ただし、乃木第三軍は、大本営や満洲総軍の戦略ミスをカバーした上で、常時は三分の一の5万で5カ月弱で落としたということが常識破りであったのですが。)
・遼陽
 日本軍が、遼陽の露軍陣地に攻勢をかけるという戦いです。この戦いのポイントは、日本軍右翼黒木第一軍が露軍最左翼を突き崩すとともに迂回、前進し、遼陽露軍陣地の後背に出たところにあります。中央では野津第四軍、奥第二軍が猛攻するも露軍陣地は強固で突き崩せませんでした。
・沙河
 日本軍が、遼陽会戦で消耗し停滞したところを、露軍が大勢力をもって日本軍最右翼の梅沢支隊を殲滅、日本軍の最右翼から包囲殲滅しようとした作戦です。露軍は日本軍中央及び左翼の西部戦線でも牽制のための攻勢を仕掛けます。しかし、日本軍は、梅沢支隊が陣地防御線を奇跡的に耐えに耐える中、奥第二軍及び野津第四軍が攻勢に出てきた露軍に逆攻勢ををかけ、西部戦線で前進していきます。ここで攻勢に出ることができたのはそもそも露軍が陣地から出て来て両軍が野戦の形で戦闘したからです。そしてこの日本軍による西部での前進旋回攻勢が、敵将クロパトキンをして、退却に転じせしめたのです。
・黒溝台
 沙河会戦後、奉天城を根拠に東西150kmに陣地を構築し布陣する露軍、それに並行して同じく陣地構築して対峙する日本軍がにらみ合っていました。日本軍が早春を待って会戦を予想していた厳冬期1月下旬、1月元旦に旅順を攻略した乃木第三軍が奉天に到着する前こそが有利な状況と見た敵将クロパトキンは、日本軍最左翼を10万の大軍で殲滅、日本軍を包囲して雌雄を決しようと攻勢をかけたものが黒溝台会戦です。これに対し日本軍最左翼の秋山好古の騎兵第一旅団は陣地を最大限利用して、四方から攻める露軍の攻勢を耐えに耐えます。
 兵力の逐次投入になり、苦戦はこれ以上ないものになりますが、都合5万の臨時立見軍による左翼への加勢により露軍の攻勢を耐え抜くことで、日本軍はこの戦いでの敗戦を免れることができました。
 この露軍大攻勢を日本軍が耐えることができたのも日本軍が陣地防御戦だったからです。

 以上長くなりましたが、この経緯の中で共通に浮かび上がる構図が有ります。
 つまり、強固に構築された陣地や要塞は敵を大幅にしのぐ兵力をもってしても抜くことが難しいということです。
 そして、奉天会戦は、まさに寡兵でも、その陣地外翼から包囲攻勢に出て文字通りの野戦を仕掛けることによって勝ちを取りに行く、という戦述しかない、構図だったのです。

 乃木さんには、この構図を旅順要塞攻略戦でそして遼陽、沙河、黒溝台の会戦の履歴から、骨の髄まで沁みてわかっていたことです。そして露軍主力を陣地から誘い出し、その文字通りの野戦を戦い抜き、日本軍を勝利に導いたのが乃木第三軍でした。

 満洲総軍司令部においても、遼陽、沙河、黒溝台の三戦で実際に陣地攻略戦を攻勢守勢とも経験してわかる必要があったのではないでしょうか。
 もちろん戦(いくさ)の最中です。そこまでの戦略眼に到達することが難しいことはあるかと思います。
(実際、この後起こる第一次大戦において、世界は大戦中を通した莫大な被害によってこの構図が明らかに知ったことを思えばそこまでは、ということは有ります。ただ局部的には、この日露戦を観戦武官として黒木第一軍の遼陽作戦の本質を学んだホフマン中佐がタンネンベルクの会戦(1914年8月~9月)で黒木第一軍が行った寡兵側の大外からの包囲戦により、ロシアの大軍を撃退した優れた事例がわずかに存在します。)
 ただし、乃木第三軍の旅順での闘いの本質を理解せず、満洲総軍司令部には乃木軍を弱軍と侮辱すらしていた参謀がいたことは、まさに日本軍にとって遺憾の極みです。
 乃木さんの増勢要請に素直に耳を傾ける参謀が何人かでも存在していれば、奉天会戦の日本軍の勝利は圧倒的なものとなっていたことは間違いありません。
 
 こうして見てきますと、やはり乃木さんは奉天においても陣地攻略戦のなんたるかを冷静に理解し、第三軍の闘いが会戦の帰趨を決定するとの信念のもと、自軍が持てるすべてを懸けて、この会戦を日本軍のものとする決定的勝因を創ったと言えると私は思います。

その5に続く

以下参考文献





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