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「今村均大将の大東亜戦争観:死中に活を求めた戦争であり、日本民族の犠牲の上にではあったが東アジア諸国の独立に大きく寄与した。百年後の歴史はそれを証明するだろう、、、と」/謂れなき戦犯裁判により刑場の露と消えた部下を含め全ての部下たちに希望を与え続けた聖将今村均

今村大将は敗戦の責任を引き受ける一方で部下たちのため大東亜戦争の意義を語り続けた

今村大将は、昭和二十(1945)年終戦後、ラバウルでの敗戦処理をした後、部下たちにかけられたいわれなき豪軍戦犯裁判に抗すべく戦犯収容所に自ら収容され、部下たちの裁判弁護に取り組みました。
そしてラバウルで一段落を見たタイミングで自らの敗戦責任を引き受け自害を試みるものの、薬が古く変質していたため果たせず、その後移送されたジャワ(インドネシア)で自らが蘭軍戦犯裁判にかけられる中でも部下たちの弁護に奔走します。

その際、容疑にかけられた部下たちは戦後の敗戦の中で連合軍のプロパガンダにより戦争中の日本軍を貶める情報の洪水にさらされます。中には、自らが命がけで戦った意義を否定され自暴自棄になる部下もいたのです。戦犯と言う全くいわれなき嫌疑をもとに裁かれた部下たちが実にたくさんいました。ほとんどが戦勝国による一方的かつ不法な裁判であり、実に多く刑場の露と消えた罪なき日本将兵がいました。

今村大将は塀の中からそういう部下たちを励まし続けました。それは大東亜戦争の意義を語らざるを得無いものであり、自身の敗戦責任を正直に引き受ける一方で、部下たちが成した東アジア解放の意義を静かにそして力強く語り彼らを励ましたのでした。

『今村均回顧録』P484に部下橋本豊平氏との獄中での手紙の交換

そのことは、「今村均回顧録」P484の『霊前に供える』(「幽囚回顧録」野同『霊前に供える』の方が詳しくこちらを推奨します。「幽囚回顧録」は最近中公文庫にも収録されました)で、同郷越後の部下橋本豊平氏との獄中での手紙の交換という形で最も典型的に今村さんの考えが記されています。

橋本豊平氏が返信中で語っている部分を引用します。
「お手紙により『われわれはお国のために、また東亜十億民衆のために戦ったのだ。今の人がなんと言おうと、百年後の歴史は、日本民族の犠牲においてかち得た、有色人種解放の世界史的意義とその聖業とを、必ず賛美するに違いない』との確信。『また戦犯とののしる者にはののしらせて置け、われらはやがて、一点の曇りもない神様のおさばきの前で、従順にその判決に服するのだ。われらの行動は、ただただお国のため、勝たんがためのものであったことに、なんの疑いや惑いをもつ必要があろう』とお教えいただき、また靖国の森で会おうと申してくださったので、やはり靖国神社はあったのか、そこに行けるのか、という大きな安心を得た、、、、後略」

こういうところにこそ私は歴史の真実があるのだと思います。
歴史を学ぶのなら、この「今村均回顧録」こそふさわしいと思います。

「今村均回顧録」続の『サイゴン寄港』にも

ほかにも大東亜戦争の意義については今村さんの回顧録の中で語られています。今村さん自身が方面軍司令官大将として責任を全うしようとした大戦争ですのでその回顧録の各所でその意義については触れられているのは当然と言えます。
ここに大東亜戦争の意義について、いまひとつ、「今村均回顧録」続の『サイゴン寄港』の最後部に記されているものを引用しておきたいと思います。

「私は今尚大東亜戦争は日本民族生存のために死中に活を見出そうとしたものであり、同時に大東亜民族解放の意義を持ったものと信じきっている。不幸にも日本民族の犠牲の上にではあったが、インド、パキスタン、セイロン(今のスリランカ)、ビルマ(今のミヤンマー)、マレー、インドネシア、仏印(今のベトナム)などの民族があるいは既に解放され、又はそれを目指しており、しかもこれら多くが日本人に対して友愛のまなざしを向けているのを眼にしては、この戦争が全的に悪であったなどとは到底考えられない」
(カッコないは筆者注)

この記載は、昭和25(1950)年1月のことを記載しているものですが、その時点で今村さんが第十六軍司令官として攻略しその後の統治も行ったインドネシアの昭和25年じゅうの独立が決まっていました。
インド、パキスタンの独立は有った(1947年)のですが、インドネシアの独立は、マレーやベトナム、シンガポールより早い独立だったのです。
インドネシアの周辺国より早い独立の背景には今村さんのインドネシア統治が寄与していることは間違いありません。このことについては別途記事にしたいと思いますが、ここにはその独立の時期がインドネシアは早かったという事実を記しておきたいと思います。






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