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「ローマ人の物語Ⅸ 賢帝の世紀」/ローマは最も仕合せな世紀を迎えた、トライアヌス・ハドリアヌス・アントニウスピウス三賢帝

賢帝ネルヴァからトライアヌス、そしてハドリアヌス、アントニウスピウスへ

この三賢帝の歴史は、最もローマが繫栄して平和であったローマ人にとって最上の世紀ということです。
それは取りも直さず、三賢帝の賢明な統治にあったことは確かなことです。
それを塩野七生さんが綿々とつづってくれた巻がこの第Ⅸ巻ということになります。

この繁栄は、それまでのカエサル、アウグストウス、ティベリウスやヴェスパシアヌスなどの皇帝が巧みに築いてきたローマ帝国の数々の仕組みや仕掛けが完成へ向かう過程であったということもできます。

完成へと向かう比較的静かな動勢

トライアヌス、ハドリアヌス、アントニウスピウスという最も賢い皇帝の治世は、意外に物静かです。
もちろん、トライアヌスはダキアを鎮め、東方をも納めますが、完成へ近づく治世の構造をしっかり守るというところが出てきます。
ハドリアヌスも在世中、帝国辺縁への巡行を足しげく繰り返しますが、一か八かの勝負はほとんどなく、治世を固めるという行動をしていたということのようです。
そして、それを特徴づけるかのように、アントニウスピウスの治世は完全に静とも言えるようなインシデントのほとんどない治世です。

もちろん、そんな単純な理解でいいわけがないのでしょうが、それまでのローマの歴史から顧みると、カエサルの波乱万丈のⅣ巻、Ⅴ巻を持ち出せば歴然としますが、やはり比較的静かな動勢ということになってしまうのではないでしょうか。

しかし、そういう繁栄と平和の世紀というのは、そこに生きるローマ人にとっては仕合せな人生を享受できるまさに「黄金の世紀」であったのでしょう。

ユダヤ、キリスト教徒との相克

一方で、この巻あたりから、ユダヤ、キリスト教という一神教とローマ世界との相克が色濃くなってきます。
なぜ、融和しないかを、塩野七生さんは、こう語っています。
「もしもあなたが、自由の中には選択の自由もあると考えるとしたら、それはあなたがギリシャ・ローマ的な自由の概念を持っているということである。ユダヤ教徒の、そして近代までのキリスト教徒にとっての自由には、選択の自由は入っていない。まず何よりも、神の教えに沿った国家を建設することが、この人々にとっての自由なのである。この自由が認められない状態で、公職や兵役の免除を認められ、土曜や日曜の休息日もOK、だから自由は認めているのではないかと言われても、この人々の側に立てば、自由はない、となる」
まさにこの点がこれからの「ローマン人の物語」に展開される歴史に厳然と現れて来るのだと思います。
このことをじっくりと読み込んでいきたいと思っています。
そしてこれは今日の世界にとっても非常に重要な観点であると言わなければなりません。

今日の自由の概念にも共通する大きな問題を内在している

塩野さんは、「近代までのキリスト教にとっての自由には、選択の自由は入っていない」と控えめに語っておられますが、このことはある部分間違っていると思います。
我々が今、世界あるいはその影響を受ける日本社会で様々な形でこの自由の概念の違いによりまことに人間性に反したことが行われていることに気付きます。
このことを語るには、大部の論述が必要ですのでここではこのくらいにとどめておきますが、そう感じる日本人はかなりいらっしゃるのではないかと思います。
一神教とそれに付随するイデオロギーというキーワードを挙げておきます。

今日の米欧と分かちがたく結びついているローマをさらに見ていきます

さらに、物語をⅩ巻に進み、ローマ世界を引き続き、見ていきます。
書評という形ですので、このくらいのボリュームを維持して皆さんに紹介していけたらと思っています。

よろしくお願いいたします。





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