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「今村大将と昭和天皇の接点 その8」/前第十六軍司令官としてジャワ攻略と統治に関する軍状奏上、第八方面軍司令官に親補され、勅語を受ける(ジャワ攻略と統治 その5)

今村さんと昭和天皇の接点ということでこれまで八記事を掲載しました。

昭和十七年十一月 前第十六軍司令官として攻略及び占領統治につき軍状奏上し、第八方面軍司令官に親補される

昭和十七年十一月十七日(「今村均回顧録」中では16日となっている)御学問所にて、前第十六軍司令官としての軍状の奏上を行い、第八方面軍司令官として親補され、勅語を賜る、と昭和天皇実録にはあります(第八巻839頁)。
本記事では、第十六軍司令官としての活動について記すことにしますが、ジャワ攻略とジャワ占領統治と内容が盛りだくさんですので複数回に分けて記事とさせていただきます。
したがって、本記事は、その5となり、ジャワ軍政統治に関する記事ではその3、4に続き、3記事目となります。

ジャワ軍政への批判と圧力の、リマインド

1)政府陸軍省から統治政治顧問三名が(官僚らしく)東京と南方総軍司令部のサイゴンでジャワ軍政を批判していると告げ、軍政方針の変更を示唆しますが、今村さんは理を尽くしジャワ軍政の効果的であり、視察してから再度感想を聞かせてほしいと申し述べて、視察後に政治顧問三名の信頼を得ます。
2)杉山参謀総長に続き、武藤軍務局長、富永人事局長が飛来し、ジャワ軍政を大いに批判します。大激論になりますが、今村さんは職を賭して軍政を変えないとことを言明します。
3)ジャワ軍政に批判的だった南方総軍寺内総軍司令官自らジャワ軍政を視察に来ました。しかし、詳細な視察後、ジャワ軍政については良好で問題なしと所見を述べ今村さんは拍子抜けします。その夜、南方総軍参謀の石井秋穂大佐から寺内総軍司令官が現地現認して軍政の問題ないことを認識したこと、石井大佐は『占領統治要綱』を起案完成させた担当者でありジャワ軍政だけがその方針通りであり感激していること等を述懐したことで、今村さんはわけを理解し、勇気づけられたということでした。さらに6月、軍司令官合同会議があり、そのとき今村第十六軍司令官は寺内南方総軍司令官に意見を上申しその軍政方針を認めさせました(前記事参照)。

陸軍中央の対応、その後

本記事では、前述2)の陸軍中央の対応のその後について記させていただきます。
昭和十七年4月に杉山参謀総長に引き続き、中央の意図を説得するため武藤軍務局長と富永人事局長がジャワに飛来し、大激論となったことは既述しました。
そして今村さんは、それに反論し職を賭して緩和政策を貫こうとしましたが、その後武藤、富永両局長が帰朝後どうしたか、ということです。

これも「今村均回顧録」に記載されていますが、
武藤局長は、陸軍大臣及び陸軍次官に対する報告で、
「ジャワ軍政はシンガポールのものと対蹠的であり、非難の声が多く出ております。私もその声に動かされていましたので、なま温るさを感じたものです。だが、よく考えてみますと、統治する対象が、インドネシアと華僑とであり、オランダとイギリスとであり、各別になるのが自然で、同じようでなければならんというのは、適当でない。ジャワ軍政は、手をつけてまだ二ケ月になりません。少なくとも、半年ぐらいたったのちの成果いかんにより適否を判断すべきものと思います。中央がこれに干渉したり、修正を要求したりすることは、今のところ、避くべきだと思います。」と説き、大臣もそれ肯定した、ということです。

武藤中将のその後

その後すぐ、武藤局長はシンガポール軍下に再編されたスマトラ(今村軍が攻略占領したところ)軍政を実施する師団長に転任したのですが、1,2か月現地を視察したあと、今村さんに下記の手紙を寄せたそうです。
「四月、貴地に参上しました時は、ジャワの実状と貴軍政の実質とを究めず皮相の観察から、無作法な言辞を口にしましたことは、なんとも申し訳なかったことと、深く慙愧いたしております。シンガポール軍傘下の師団として、スマトラ軍政を担当し、インドネシアの柔順性とオランダ人の無気力さを知り、いよいよ以てジャワ軍政の方針は、適正なものであることが判明いたしました。私は軍と中央とに所見を報告し、スマトラは、ジャワ軍政に準じ、実行することに改正しました。茲に重ねて、当時の失礼を陳謝申し上げます。」
今村さんは、武藤中将の淡白さを快く受けとった、と記しています。

これと似たことが「今村均回顧録」に書かれています。今村さんが満洲の関東軍参謀副長のとき、参謀たちの市中料理屋での会食を禁じる通達を出したとき、それに酒に酔って絡んできた田中隆吉中佐参謀が、五年後陸軍省の兵務局長になり、ジャワに出陣する今村さんに対して、同様にその通達の正しかったことを再認識し、非礼を詫びて反省の弁を述べたことが書かれています。
こういうやりとりがあるということが、いかにも今村さんらしい気がしますし、陸軍の組織の興味深いところでもあります。

陸軍中央の対応その後、昭和十七(1942)年十月、軍政承認される

昭和十七(1942)年十月、陸軍中央より第十六軍参謀長岡崎少将に上京の指令が来着します。
今村さんもこのときいよいよ陸軍中央が『占領統治要綱』の改正しその実施を指定するものと覚悟を固めた、と記しています。
しかし、次のようになったと、回顧録は記しています。
「岡崎少将が東京に着いたと思うとき、急電がとどいた。
『東京着。直ちに中央に申告せるところ、大臣、総長は、各別に次の趣旨のことを指示せり。「ジャワ軍政には、改変を加うる要なし。現在の方針にて進むを可とす」詳細は帰任後報告す』
参謀長は五日ほど滞京の上、飛行機で飛んで帰って来た。
『やっぱり緩和政策の一貫はよろしくありました。中央が各軍占領地域の半年間の治安情況、産業の復旧、軍需物資の調達などを比較観察し、こっちの成果がずばぬけて良いことに”なるほど”と納得が行き、今まで悪声をはなっていた連中のなかには、私に対し、追従をいったり、他方面の悪評を聞かせる者などがあり、不愉快でした』」
という報告を岡崎少将はしたということです。

今村さんと今村軍司令部の勝利だったわけです。

以上、「ジャワ攻略と統治」について、『今村均回顧録』と『太平洋戦争の肉声 開戦百日の栄光』(文春文庫)を引用して、五記事アップさせていただきました。

今村さんは、昭和十七年十一月、昭和天皇に拝謁し、前第十六軍司令官としてここに記した攻略及び占領統治につき軍状奏上し、第八方面軍司令官に親補されるわけです。




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