見出し画像

「今村大将と昭和天皇の接点 その6」/前第十六軍司令官としてジャワ攻略と統治に関する軍状奏上、第八方面軍司令官に親補され、勅語を受ける(ジャワ攻略と統治 その3)

今村さんと昭和天皇の接点ということでこれまで六記事を掲載しました。

昭和十七年十一月 前第十六軍司令官として攻略及び占領統治につき軍状奏上し、第八方面軍司令官に親補される

昭和十七年十一月十七日(「今村均回顧録」中では16日となっている)御学問所にて、前第十六軍司令官としての軍状の奏上を行い、第八方面軍司令官として親補され、勅語を賜る、と昭和天皇実録にはあります(第八巻839頁)。
本記事では、第十六軍司令官としての活動について記すことにしますが、ジャワ攻略とジャワ占領統治と内容が盛りだくさんですので複数回に分けて記事とさせていただきます。
したがって、本記事は、その3となり、ジャワ軍政統治に関する記事となります。軍政統治に関してはその4も使わせていただいて記事にします。その3はジャワ統治の前半部分となります。

ジャワ占領後の軍政統治方針

3月9日に全蘭印を占領し、軍司令部は10日軍政統治方針を協議しました。参謀長以下12名の参謀に意見を述べさせたということですが、少壮者の多くはまず強圧政策によるべきとの意見でした。一方軍政主任参謀中山寧人大佐は「軍政の方針は、出征時中央から示された『占領統治要綱』に明示されている通り、公正な威徳で民衆を悦服させ、軍備資源の破壊復旧、それの培養、接収を容易迅速にするものでなければならない」と主張しました。これに、作戦課長の高嶋大佐、原田参謀副長、岡崎参謀長までが同意を表明しましたが、これに対し、今村軍司令官は、
「軍政事項は、主として参謀副長と中山寧人大佐とがその事務を分担することになる。軍司令官もまた、中央から指令されている通りに軍政をやっていくことに決心している。八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義膿瘍に観念されている。一方的に武力を持っている軍は、必要が発生すればいつでも強圧を加えることができる。だから出来る限り、緩和政策で軍政を実行することにする。」と決断されました。

トップがしっかりしていれば、気骨の少壮実行責任者が真っ当、合理的な仕事をやっていくということがここに明瞭に現れているように思います。
以下、さらにその様子を見ていきたいと思います。

中央、各方面からの批判と圧力

その後4月中旬、まず政府陸軍省から統治政治顧問三名が飛来しました。
それらの筆頭の児玉秀雄氏(元内務大臣)が、「東京でもサイゴンでも(
中略)、ジャワの軍政方針に対し、非難の声を上げております。”日本国と日本軍の威重が、少しも示されておらない”(後略)というのがその言い分です」と強圧政策をすべきと示唆する発言をします。
しかし、今村さんは、ジャワではその必要はないと明言し、原住民の協力姿勢、無辜のオランダ人は弾圧すべきでないこと、華僑についても資源物資の培養にとって必要であることを述べ、各地を巡視の上で再度忌憚のない意見を述べてくれ、と言います。
このあと、三名の顧問は三週間ほどジャワ各地を巡視し、今村さんの言葉がジャワ各地で行われていることを現認し、緩和方針に同意してくれたということです。

間も無く中央参謀本部から杉山参謀総長が視察のため飛来しました。
このときも杉山総長個人は批判的かどうかでなく、中央での組織内部では緩和政策の批判が多く、まもなく武藤軍務局長と富永人事局長が来るからその意向を聞くように、と言われました。これは今村さんを良く知る杉山参謀総長の、今村さんの人事上の将来を案じる言葉であったようです。
これに対し、今村さんは、ジャワには緩和政策が最も適当であるので、中央が統治方針を変え強圧政策を命じるならば、自分は信念と違うことができないから免職をはかってくれと願い出ておいた、と言っています。

武藤軍務局長、富永人事局長との大議論

4月下旬と思われますが、中央からその武藤軍務局長と富永人事局長が飛来しました。そして大激論になります。
まずはジャワ第十六軍の参謀たちと、中央の武藤、富永両局長が打合せしますが、これが侃々諤々の大議論となり、十六軍参謀の高嶋大佐などは大きな甲高い黄色い声を吐き出したのが、隣の部屋にいた今村大将にも聞こえてきたそうです。結局参謀たちとは物別れに終わったようです。
次に、武藤、富永両局長は今村さんを直接説き伏せようとします。
しかし、今村さんは、
1)開戦時の中央方針の『占領統治要綱』(前記しました)は改正されていない。それに従って軍政を行う。
2)情勢が変わって強圧政策にすべきというのは、情勢が変わったかを見極めるに占領後1カ月半で出来るわけがない。
3)今村さんが主宰起案した「戦陣訓」に悖る強圧政策はできない。
4)強圧政策に変えるなら『占領統治要綱』を改正の上、私(今村)を罷免されたい。それを見るまでは軍政方針は変えない。

武藤、富永両局長は、その後視察した各地で第十六軍将校に向かい、強圧政策にすべし、と吹聴したということですが、今村さんはその後も部下第十六軍部隊長に繰り返し繰り返し現在の軍政方針を遵守すべきことを指令したとのことです。

南方総軍の視察

第十六軍は系列的には、中央ー南方総軍の下部組織になります。南方総軍内でも中央同様、ジャワ軍政方針に批判がありました。
6月になり、寺内南方総軍司令官自らジャワの軍政視察に来ました。寺内将軍もジャワ軍政に批判的だと聞いていた今村さんは、6日間の視察後の寺内将軍が視察後、「ジャワ攻略戦、爾後の防衛計画、それに軍政についてすべて良く行われており何も要求するところは無し」とのみ所見したということに意外を感じたということです。
これにはこの後事後談があります。
その夜に、南方総軍司令部課長参謀石井秋穂大佐が今村さんところを訪ね言うには、
石井は開戦前中央軍務局に勤務し『占領統治要綱』を起案し、各部門と調整の上本案としました。ところが緒戦の成功に酔った各作戦軍は前記要綱に依らず各軍随意に方針を立て多くが要綱を無視しています。しかしジャワだけは要綱通りの軍政を実施しており石井は感激しています。今度のジャワの、南方総軍の視察は総軍司令官自身が他の方面より詳しく視察し、今まで聞かされていたことが間違いだったことが認識され、むしろ”軍政はこうなっていなければならん”と感じられたようです。どうか今後とも方針をお変えにならないようお願いいたします、
と熱意を込めての述懐をされたということです。
今村さんはこの述懐に勇気づけられ感謝したと『今村均回顧録』に書かれています。

ジャワ統治 その4に続きます。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?