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「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 (2)前置きと結論」/定年講演

・「前置き」

本日は、私情(私の勝手な思い)を語ってよい、恐らく唯一の機会。また一方で、少しは本心を語らないと感謝の情も嘘っぽい。と思ってつくりましたら、私らしく、やはりゴタクが多くなり、野暮ったいものになってしまいました。また、仕事の話はほとんどなくて尚且つこういう場に相応しくなく、文学的、信仰的(そして幾分政治的)になり過ぎています。「人材育成」というお題をいただきながら、それに適わず申し訳ありません。

それに論理的統制の取れたものでもありません。皆さんのお時間をけがしてしまうかもしれませんが、あまり気を使い過ぎても素直でないか、まあ、ええか、、、、ということで勘弁してください。

すみませんが、あくまで私的な理解なので、私はこう思う、こう考えるということで、当たり前じゃないかと思う人も、とんでもないと思う人も、くど過ぎるという人もいるかと思います。思いっきり私情を話しますがアホが好き勝手言い放って言ったな、と解釈して頂けたらと思います。

ただ、好き勝手という点は非常に重要で、一人の人間にとっては(安易に考えることは禁物だと自戒してきたつもりですが)、処世的な意味でも、世の中に対して自分なりの「勝手な」理解を持つことなく歳月をおくっていくことはおそらく精神に重大な瑕疵を生じることになると思っています。というくどい言い訳をしておきます。

・「結論」

『雪埋梅花 不能埋香』

『行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候』

(多少判じ物のようですが、くどいより言葉足らずの方がまだ心地よいと思います。)

これらは、未だ遠大、遼(はるか)です・・・・実感であり、結論です。

何を念頭に、それらが遠大で遼なのか?

『近代=個の確立』(西欧近代)、ということになります。世俗レベルではありますが、日本人にとって近現代を通して切迫し続けている非常に重い課題。近代との対峙或いは相克こそが、いわゆる明治近代以来、我々にとって大課題で、今、現在特に若い世代が非常に厳しい形で直面しているものでもあると思います。現代の、ほぼあらゆる文学、哲学或いは芸能や芸術がこの課題に対してのものだと言って過言でない。が、今最もそれへの対峙方法の再生が必要とされているのに、大学は就職予備校に成り果て、芸能、芸術は”パンとサーカス化”していて、非常に残念です。

ここでもポイントは、私は、学者でも作家でもなく、C社の社員なので、自分が個として成って、会社も同時に成ることが必要になる点です。(私はまた、それらを越えるものとして日本という文明主体=国家を考えずにはおれませんでした。キケロ/古代ローマの哲人政治家とそういう意味で立場を同じうします。また公の概念もそこに結構重なりますが今日は触れません)

これから「近代」についてゴタクを並べますが、米ソ冷戦終結後三十年ちょうど一世代、また21世紀も20年を経過し「近代」の大きな転換点に来ている今、「近代」を改めて眺めるのも無駄ではないと思いました。

(3)に続く。

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