見出し画像

「日露戦争奉天会戦/司馬遼太郎史観に騙されないで その3:奉天会戦の勝因は乃木第三軍の北進攻勢に他ならず」 乃木さんの孤独な闘いと殊勲

 さて、その2で、3/4に至り日本軍総司令部は、奉天会戦の作戦を変更します。それはおとり役とした乃木第三軍を主力とし、奉天の露軍を左翼から包囲殲滅するというものです。
 
 実にこれは大きな作戦変更です。もちろん、会戦中途での作戦変更があっていけないことはありません。勝つためには許されるどんな手を使おうと構いません。それが戦争です。しかし、そもそも、作戦会議の席上、乃木さんが第三軍に一個師団と若干の砲兵の加勢を要請したのを拒絶したことと全く整合しません。そこが言いたいポイントです。
 私は、本当に私見ですが、乃木さんはこの状況を正確に予見していたと思うのです。
 のちにその理由詳細は述べますが、乃木さんはこの奉天会戦で確実に死ぬつもりでいたはずです。旅順で多くの部下を死なせたことの責任を乃木さんほど痛切に思っていた将軍はいないでしょう。それは戦勝後の明治天皇への復命として記録に残っています。そうであれば、真に死を前にした人間だけが見通せる透徹した視線が奉天会戦の切所が見えていた可能性が高いと思うのです。それが会戦前の作戦会議の時の、加勢要請に表れているということなのだと思います。

 さて、乃木大将は、3/4、作戦変更命令を受け取る以前に第三軍に前進命令を発します。そして露軍の厳しい迎撃を受けながらも奉天を包囲すべくさらに北北西へ前進を続けるのです。

 このあと、乃木軍には、もともと日本軍最左翼に布陣していた騎兵第一旅団(秋山好古少将麾下)と後備歩兵旅団三個が加えられますが、クロパトキンがいよいよ乃木軍を主力攻勢と確信し、さらにこれまでの倍の兵力を加え、都合で乃木軍の三倍に兵力を日本軍左翼乃木第三軍に浴びせかけ奉天会戦の勝利を獲得しようとします。
 
 それからの第三軍の闘いは壮絶を越えた戦いでした。
 3月6日から9日の奉天会戦左翼戦線、乃木将軍率いる第三軍の状況は常軌を逸し、壊滅的であったと言うも表現が甘すぎるものだったのです。6日から敵将クロパトキンが、第三軍が攻める日本軍左翼を、予備を含めた主要兵力を中央から引き抜いてもってきて全力で潰しに来ました。実に三倍の敵(しかも野戦において)に対した第三軍は各所、随所に潰滅的状況が現出した絶望的戦況に陥りながらも、9日までの三昼夜にわたって実に攻勢を崩すことなく耐え抜き、その攻勢と耐え抜いたことこそによってクロパトキンの意志をくじき退却の断に至らしめたことになります。
 
 この戦いができた原因は、第三軍の将兵が乃木将軍統率のもと、自分たちこそがこの戦いの帰趨を決める現場にいるのである、という一糸乱れぬ統制を維持したからに他なりません。
 乃木さんがそのような統率を実行したことは、三軍司令部を自ら弾丸飛び交う最前線に突出させ、その作戦目的を将兵に徹底したことに表れています。
そし て、クロパトキンが中央から兵力を引きぬいた反動で全戦線における露軍陣地の͡渾河の線への後退を8日に行います。しかし、前述したように乃木軍の攻勢を止めることができません。このため、この後退がクロパトキンをして致命傷を負わせる原因を作ったことになります。
 露軍の渾河の線への後退を追撃した、黒木第一軍が漸くの事9日になり、奉天東部の露軍第一軍、第三軍と奉天付近露軍第二軍の分断に成功します。
 このような事態に直面した、敵将クロパトキンはついに包囲殲滅の恐れを覚え、9日夕、北方の鉄嶺への退却を決断します。
 

 以上述べてきましたように、三倍の兵力の露軍をしても、日本軍最左翼での乃木第三軍の将兵の止められなかった北進包囲攻勢こそが、児玉源太郎の無策を覆したとさえ言える、紛う事なき奉天会戦の勝因なのです。そしてその根底にあったのは、おそらく不落が各国軍事専門家によって信じられた旅順を落とし得たと同じく乃木将軍の統率力に他なりません。

 このあと、10日ついに奥第二軍が奉天城への入城を果たしました。戦傷者数では日本軍の方が多くありましたが、露軍は逃げ切れなかった捕虜などを多く出したため、奉天会戦の日本軍勝利が確定したということになります。

その4に続く。

以下参考文献


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?